有馬・高槻断層帯で注目される慶長伏見地震とは 

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今朝、大阪府北部を震源とするマグニチュード6.1の強い地震がありました。

被害に遭われたり、交通機関等の混乱で影響を受けた方々に、心からお見舞いを申し上げます。

私も朝からとても怖い想いをし、職場でも対応に追われていました。

422年ぶりに動いた「有馬・高槻断層帯」

報道によると、大阪府内で最大震度6弱以上を観測した地震は、詳しい観測が始まった1923年以降では初めてなのだとか。

あの阪神淡路大震災の時には、大阪は震度4だったそうです。

そして今日の地震は、「有馬・高槻断層帯」で発生したとみられています。

この断層帯では、1596年7月12日の深夜にマグニチュード7.5と推定される「慶長伏見地震」が発生していますが、それは今から422年前の出来事。

地震による死者数の合計は、京都や堺で1,000人以上を数えたと言われています。

『真田丸』にも登場した慶長伏見地震

実はあの大河ドラマ『真田丸』でも描かれていたのです。

晩年の秀吉は、朝鮮出兵の講和のために訪れる明国の使節に日本の国威を見せつけるために、指月(しげつ)伏見城を建設しました。

真田昌幸パパも一生懸命、城普請を務めていましたが、完成を目前にしたこの大地震で、天守の上二層が倒壊。

城では600名ほどが圧死しましたが、豊臣秀吉は運よく無事で、城の台所施設で一夜を過ごし、翌日そこから約1km離れた木幡山(こわたやま)に仮小屋を作り、避難生活を送ります。

そして秀吉の避難した木幡山に、新しい伏見城が建設されました。

歌舞伎ではこの地震の際、秀吉から閉門を命じられていた(石田三成の讒言で)加藤清正が真っ先に伏見城に駆けつけて秀吉を救助し、閉門を解かれる話になっています。

大河ドラマでも加藤清正が頑張っていましたね。

とても地震が多かった秀吉時代

1586年の天正地震は、まだ秀吉による東日本支配が完了していない時期に発生しましたが、被害地域は若狭湾から三河湾に及んでいます(マグニチュードや震源地は不明)。

天正地震では、大河ドラマでも描かれた山内一豊の一人娘・与祢(よね)や、前田利家の弟・秀継が命を落としました。

飛騨国(白川郷の近く)の帰雲城(かえりくもじょう)が、山崩れにより埋没し、城主・内ケ島氏は一族全員行方不明になって滅亡したこともよく知られています。

その10年後に起きた慶長伏見地震では、地震の4日前に慶長伊予地震が、地震前日には慶長豊後地震も発生していました。

これらの地震を契機に、1596年10月、それまで「文禄」であった元号が「慶長」と改元。

その前年から浅間山も活発に活動し、中規模の噴火を繰り返していたようです。

秀吉の時代は、地球の活動期だったのですね。

備える心の大切さ

最近日本の各地で地震が発生し、火山活動も活発になっています。

日本に住んでいる以上、地震や火山の被害からは逃れることはできないかもしれません。

しかし、災害の歴史を学んで少しでも被害を軽減し、また災害から立ち上がった人々の姿から、私たちは不屈の精神を学べるとも思います。

油断せず、かといって恐れすぎず、この国土と長く付き合っていきたいものです。

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