大河ドラマで学び直せる日本史 中岡慎太郎と薩長同盟(『西郷どん』第32話)

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『西郷どん』第32話は「薩長同盟」。

薩長同盟といえば、どうしても主役は坂本龍馬。でもこのドラマの主役は西郷隆盛だから、一枚の写真を利用して、薩摩藩と長州藩の和解を演出したのは西郷隆盛なんだ!と言いたいように思えました。

ところで、いつも不思議に思うことがあります。

薩長同盟を仲介したとして、教科書にも登場する中岡慎太郎さんって、いつも影が薄いですよね。いったいどんな人なのでしょうか?

今回は、中岡慎太郎と坂本龍馬の視点から、薩長同盟を見ていきます。

大庄屋の長男として誕生

中岡慎太郎は1838年、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現在の高知県安芸郡北川村柏木)に、北川郷大庄屋の長男として誕生しました。

18歳で、龍馬の友人である尊王攘夷論者・武市瑞山(たけちずいざん 半平太)の道場に入門。

21歳で、野友村庄屋の娘である15歳の兼(かね)と結婚しています。

龍馬さんと違い、しっかり身を固めたにもかかわらず、慎太郎は25歳の時、武市が結成した土佐勤皇党に加盟して、本格的に政治活動を始めたようです。

長州藩とつながりが深い中岡慎太郎

その翌年、長州藩の久坂玄瑞(くさかげんずい)らとともに、信州松代藩に蟄居していた佐久間象山を訪ね、大いに意識を高めました。

佐久間象山は中岡慎太郎について、「土州藩の使者(中岡)は頗る頑固な人で、これを辞したら殆ど刺違へぬばかりに議論をした」と述べています。

1863年、「八月十八日の政変」を契機に、土佐勤皇党の弾圧が始まると脱藩して長州に亡命し、脱藩志士達を率いて長州戦争にも参戦し、負傷しました。

またこの時期、島津久光の暗殺も画策しています。

長州藩ととても近い立場・信条であったと言ってもいいでしょう。

薩長同盟への道

しかし長州藩への冤罪・雄藩同士の有害無益な対立・志士たちへの弾圧を目の当たりにした中岡慎太郎は、尊王攘夷論から雄藩連合による武力倒幕を構想。

桂小五郎と西郷隆盛の会談による薩長同盟締結を、第一の悲願として活動していくのです。

「八月十八日の政変」で長州に落ち延びた尊王攘夷派の公卿・三条実美とも連絡を取りつつ、脱藩志士たちのまとめ役としても活動。

そして薩摩と長州の志士たちの間を飛び回り、この時期亀山社中(後の海援隊)を結成していた土佐脱藩浪士の坂本龍馬や、三条の随臣である土佐勤皇党の土方楠左衛門(土方久元)をも説き伏せて、薩長同盟構想に巻き込んで行きました。

薩摩側の代理人が坂本龍馬、長州側の代理人が中岡慎太郎と、薩長両藩にも理解されていました。だから教科書にも、この2人がセットで登場するのですね。

西郷隆盛の違約

1865年5月、中岡慎太郎は桂小五郎と会談した後に鹿児島に向かい、西郷隆盛と桂小五郎を、下関で対面させようとします。

中岡慎太郎の鹿児島行きを知った龍馬は、薩長和解が成立するものと信じていました。

ところが閏5月21日、西郷を連れてくるはずの慎太郎が一人で下関に戻ってきます。

16日に西郷は鹿児島を出航しましたが、18日に豊後佐賀関に着くと、幕府が兵6万の軍事力を背景に、第2次長州征討を朝廷に迫っているという京都からの急信があったとして下関入港を取りやめ、京都に向かってしまったのです。

西郷は京都で、幕府の脅しに屈せず、長州再征に協力しないこと、そのための朝廷工作を進めるよう、大久保利通に指示していますが、下関での会談を反故にされた桂小五郎は大激怒!

仲介役は亀山社中

龍馬と慎太郎は必死で桂をなだめ、薩摩から礼を尽くした上ならば再会談に応じるという言質を引き出しました。

そして外国貿易ができない長州藩の代わりに、薩摩が自藩名義で蒸気船や武器を購入。その代わり長州藩は、兵糧米不足の薩摩藩のため、米を供出するという取引が成立します。

両藩の和解は成立し、この取引は亀山社中の活躍で円滑に行われました。

薩長同盟の成立

薩摩より正式な申し入れを受けた桂は西郷との会談を決意し、数名の藩士と共に京都へと出立します。

1866年1月8日、西郷らの出迎えを受けた桂は、二本松の薩摩藩邸に入ります。

1月20日に小松帯刀邸(近衛家別邸・御花畑御屋敷跡)に逗留する桂と再会した龍馬は、薩長和解が全く進展せず、桂の送別会まで用意されたと知りました。

西郷らは桂の接待に気を遣い、ごちそう攻めにするものの、長州藩への新たな処分を拒絶する桂と、処分を受け入れれば幕府は長州再征の口実を失うから、我慢して受け入れて欲しいと言う西郷との意見がかみ合わなかったのです。

桂は長州代表として、もうこれ以上は頭を下げられないとのこと。もっともだと思った龍馬は、小松や西郷らに直談判しました。

小松や西郷は一晩熟慮の上、翌日龍馬を交えて小松・西郷・桂が会談。薩摩側は長州藩の処分拒否を容認し、改めて幕府との戦争を覚悟したのです。

幕府と長州藩が交戦し、勝った場合、負けた場合など様々な想定のもと、薩摩藩がいかに「尽力」し、長州藩の「冤罪」を晴らす手助けをするかが決められました。

しかし口約束だったため桂は不安を感じ、六箇条に分けて成文化し、龍馬に裏書きを求めました。

龍馬は朱筆で裏書きに応じ、はからずも一介の浪士が二大雄藩提携の「保証人」となったのです。

異国の地で、一足早く薩長締結

今回新しく(少なくとも私は初めて見ました)紹介された、両藩の留学生のエピソードは、真実でした。

ロンドン大学の一校である名門ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン(UCL)では、長州藩から5名、続いて薩摩藩から19名の留学生たちが学んでいたのです。

中庭に、日本人24名の名前が刻まれた記念碑があるのだとか。

かつて戦火さえ交えていた長州藩と薩摩藩ですが、薩長同盟が結ばれるより前に、遠く離れたロンドンでは、既に藩の枠を超えて日本人という一つの国家の国民としての意識に目覚めていたのですね。

「長州ファイブ」という言葉は最近よく聞くのですが(映画があったらしいです)、「薩摩スチューデント」というのも初耳でした。彼らが一緒に写っている写真はないそうです。

ちなみにこの留学生の中には、井上馨、伊藤博文(以上長州藩)、寺島宗則、五代友厚、森有礼(以上薩摩藩)という有名人がいました。彼らの異国での活躍も、いつか見てみたいですね!

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