大河ドラマで学び直せる日本史 消された益満休之助と、山岡鉄舟の一言(『西郷どん』第36話)

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やはり描かれなかった薩摩御用盗

前回の『西郷どん』では、鳥羽伏見の戦いや江戸城無血開城へ向けての動きが描かれていました。

大河ドラマで学び直せる日本史 王政復古の大号令(『西郷どん』第35話)

2018.09.27

でも、江戸で薩摩藩によるテロ行為があったことは、誰かのセリフでさらっと流れたくらい(真剣に見てなかったから確証はありません)。

映像で再現しないから、どんな酷いことが行われたかイメージしにくい人もいるでしょうが(それが狙いかも)、やはり真実を描いて欲しかったなと思いました。

『真田丸』や『おんな城主直虎』で戦国時代の非情さを描きながら、幕末はどうしたのかな? 最近ネットでは「忖度」という表現も使われているようです。

薩摩御用盗とは

徳川慶喜は将軍在任中、京都で過ごしたため、江戸には市中取り締まりの藩兵のみが警護に当たっていました。

1868年10月14日、西郷隆盛は討幕の密勅を手に入れると、交流のあった下総の尊王攘夷派志士・相楽総三に命じ、警備の手薄な関東攪乱を指示します。

討幕の密勅を手に入れたのだから、戦いはすでに始まった。戦いに勝つためには、手段を選ばない。こういう部分を丁寧に描き、主人公にもっともっと葛藤させればよかったのに。

相楽は三田の薩摩藩江戸藩邸を根拠地として、各地から討幕や尊王攘夷を唱える浪士たちを全国から多数(約500名)招き入れました。その中には、素行の悪い者も当然いたはず。

彼らは薩摩藩士の益満休之助らから指導を受け、「幕府を助ける商人、志士の活動を妨げる商人や役人、唐物を扱う商人、金蔵を持つ富商」を攻撃対象に、放火や略奪・暴行を繰り返し、意図的に幕府を挑発しました。

密勅が出された直後に大政奉還が行われ、討幕挙兵の中止も江戸の薩摩藩邸に伝えられましたが、加熱した騒乱行為は抑えることができず、江戸の治安は大いに悪化。

一度やり出したテロ行為は、止めることが出来ないのです。西郷隆盛だってわかっていたでしょう。

江戸薩摩藩邸焼き討ち事件

浪士たちは江戸市中でテロ行為を働くだけでなく、討幕の兵を募って関東各地で挙兵し、旧幕軍に敗れると薩摩藩邸に逃げ込むことを繰り返します。

12月23日夜には、江戸市中の警備に当たっていた庄内藩屯所に発砲があり、江戸城二の丸も炎上。薩摩藩士の関与がささやかれました。

ついに旧幕府側は、庄内藩を主力とした軍勢に薩摩藩邸の浪士引き渡しを求めますが、交渉は決裂し、旧幕府軍2千名以上が討ち入りを開始。

薩摩藩側は約200名で奮戦するも多勢に無勢で、薩摩藩邸は全焼しました。

相楽総三は脱出に成功しますが益満休之助は捕らえられ、処刑の直前、勝海舟に身請けされました。

この知らせが大坂城の徳川慶喜らの元に届くのは、12月28日。

大坂城に「薩摩討つべし」の声がわき起こり、西郷らのもくろみ通り、徳川慶喜ら旧幕府軍は「討薩の表」を掲げ、鳥羽伏見の戦いへと進んでいくことになるのです。

もしこの事件がなければ、慶喜は越前藩や尾張藩の尽力もあって、穏便に新政権に参加できていたかも知れません。

勝海舟の計略

翌年1月の鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍が惨敗し、慶喜は江戸に逃げ帰って恭順の意を示し、上野寛永寺で謹慎。事態の収拾は勝海舟に一任されます。

それにしても、『西郷どん』に登場する勝海舟は、あんな口の利き方していていいのかな?

一方新政府は慶喜追討令を出し、西郷隆盛は東征大総督府下参謀に任命され(彼の上司は皇族と公家なので、彼が実質の参謀長)東海道から江戸を攻撃することとなりました。

西郷が駿府(静岡)に陣を構えていたとき、江戸城無血開城を願う勝海舟の書状を携えた幕臣・山岡鉄舟が、薩摩藩邸焼き討ち事件の際に捕らえられた薩摩藩士・益満休之助を案内役として駿府を訪れています。

山岡鉄舟を選んだのは、西郷隆盛が好みそうなタイプだと見抜いたためでしょう。

薩摩藩士の益満休之助も、こんな時に役に立つかも知れないと、勝海舟が匿っていたようです。

益満の薩摩弁が、山岡鉄舟の官軍陣地通行を可能にしました。

いくら「武士の中の武士」との誉れ高い山岡鉄舟だって、たった1人で西郷隆盛のそばにたどり着けるほど、東征軍のセキュリティーは甘くないはず。

そんなことも、大河ドラマではきれいさっぱり抜け落ちていました。

山岡鉄舟は切腹しない

山岡と会見して勝海舟の手紙を読み、徳川慶喜の意向を聞いた西郷は、5箇条の条件を出しました。

しかし「慶喜の身柄を備前藩に預ける」という条件を、山岡鉄舟が断固拒否。

備前岡山藩の先代藩主は徳川慶喜の弟でしたが、岡山藩はこの時期尊王攘夷の旗色を鮮明にしており、慶喜の弟を隠居させて養子の新藩主が東征軍に加わっています。

そんな備前藩に預けられたら、慶喜の命の保証はありません。

「これは朝命である」とすごむ西郷に対し、「もし島津侯(斉彬)が同じ立場なら、あなたはこれを受け入れないはずである」と、山岡は命懸けで反論しました。

考えてみれば斉彬さまは、将軍継嗣問題や篤姫の輿入れに際して、かなり強引で、危ない橋を渡っていたのです。いつ何時、井伊直弼に捕らえられてもおかしくなかった。

多分西郷隆盛にも、それがよく伝わったのでしょう。

西郷は山岡の立派な態度に感心し、その条文を自らが預かって保留とします。山岡も泣いて感謝し、江戸の勝海舟に報告しました。

個人的にはとてもいい話だと思うし、ここで西郷隆盛のイメージも大きくアップすると思うのに、どうしてそれを描かないのかな?

慶喜の妾・ふきもなぜ慶喜にあんな言動をするのかわからない。まさか慶喜より西郷どんに惚れたとか?

よく分からないことが多いまま、幕末編が大詰めを迎えようとしているようです。

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