『麒麟がくる』ゆかりの地・安土6 長谷川秀一邸跡から摠見寺へ

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神君伊賀越えの貢献者・長谷川秀一邸跡

2010年3年、織田信長の史跡を訪ねて滋賀県の安土を訪れました。

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安土城址の本丸跡と天主台跡を見学し、下り道へさしかかりました。

最初に目についたのは、長谷川秀一(ひでかず)邸。

あまりドラマでは描かれることの少ない人物だと思うのですが、調べてみると面白いことがわかりました。

彼は信長の小姓として長年仕え(ボーイズラブの相手だったという説もあります)、奉行衆としても活躍。

本能寺の変の際は、家康の案内役として堺に滞在していました。

そして関西地方の土地勘がない家康一行34名が、無事に脱出できるよう、河内、山城、近江、伊賀、伊勢を経て船で尾張国熱田まで案内したのです。

一行の宿泊や休憩のためには、大和や近江の国衆(有力地方武士)の協力が欠かせません。

それを成し遂げた彼は、「神君(家康のこと)伊賀越え」の成功に大いに貢献したわけです。

もしも家康や徳川四天王がここで討死になどしてしまったら、歴史は全然別の姿になっていたことでしょう。

『真田丸』や『おんな城主直虎』で(ややコミカルに)描かれた伊賀越えに、彼も同行していたのでした。知らなかったな。

織田信雄公四代供養塔

この「長谷川秀一邸跡」にあったのが、織田信長の次男・信雄(のぶかつ)とその子孫の供養塔。

信長には30名近い子供がいたと言われていますが、大名になったのは彼だけでした。

伊賀での戦いで大敗して信長に叱責されたり、家臣にも「無能」呼ばわりされていた彼ですが、能には優れており、大坂冬の陣では徳川方の優秀なスパイだったとも言われています。

案内板を見ると、なかなか長生きした信雄。戦国時代をくぐり抜け、徳川家光時代に亡くなっています。

どんな人だったのかな。

摠見寺の謎 フロイスの記録は真実?

摠見寺(そうけんじ)は安土築城に伴って、信長により建立された寺院です。

信長は近隣の社寺から多くの建物を移築し、この寺を建てました。

堂塔伽藍を備えた立派な寺院を持つ城は、後にも先にもこの安土城だけなのだとか。

本堂など多くの建物は、幕末に焼失してしまいましたが、この本堂2階に信長は、「盆山」という石を置き、どの仏よりも高い場所に安置されたその石を「神体」として礼拝させたようです。

フロイスによると、安土では信長が「予自らが神体である」と言い、信長の化身として「盆山」を祀ったのがこの寺院でした。

仏舎利(釈迦の遺骨など仏の遺物)を祀るために建てられた三重塔よりも本堂が高い場所にあるのは、「盆山」が仏の上にあることを示すためだったのです。

大手道から城には入れたのは「選ばれし者」で、普通の大名や武士・庶民たちは摠見寺から安土城に入りました。

そして信長の誕生日を「聖日」とし、摠見寺に参詣するよう城下町にお触れを出したのだとか。

この話は本当なのかな? 『信長公記』には書かれていなくて、フロイスの記録が唯一なので、信憑性を巡っては様々な説があるようです。

フロイスは、本能寺の変は「神になろうとした信長の天罰」として、自分やイエズス会のスポンサー・ローマ法王などを納得させたかったのでしょうか。

ともあれ、僅かに当時の姿をとどめるのは、三重塔と

金剛力士像のある

立派な二王門のみです。

摠見寺からの下り道では、安土城天主台からはなかなか見えなかった琵琶湖が、きれいに見えたのが印象的でした。

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