『逃げ上手の若君』ゆかりの地3 護良親王の墓 動乱の中に散った悲劇の親王

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『週刊少年ジャンプ』に連載が始まった『逃げ上手の若君』の舞台の1つは、鎌倉です。鎌倉時代末期から南北朝時代を描く、異色の時代設定。

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先日、その鎌倉を訪れる機会がありました。

利発聡明で武芸を好んだ法親王

鎌倉で偶然通りかかって発見したのが、護良(もりよし)親王の墓です。

彼は後醍醐天皇の第三皇子で、通称は大塔宮(おおとうのみやorだいとうのみや)。

母の身分が高くなかったため皇位継承から外され、6歳で比叡山に入りましたが、利発聡明で周囲の信頼を集め、20代で天台宗№1の地位・天台座主(ざす)に就任しました。一方で武芸を好み、学問や修行には関わらず毎日僧兵と訓練に励み、とても身軽であったと『太平記』には書かれているそうです。

後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚すると、護良親王も幕府から追われ(逮捕されれば死罪)、後醍醐天皇が逮捕されて隠岐に流罪となっても、各地を転々としながら幕府に抵抗。

源平合戦の先駆けとなった以仁王(もちひとおう)のように、幕府追討の令旨(りょうじ 皇太子の命令書)を出し続け、その間に還俗して護良親王と名乗りました。

よく考えたら、以仁王も護良親王も皇太子ではないのに(以仁王に至っては「親王」という身分ですらない皇族)、命令書の権威を高めるため「令旨」という言葉を使ってますね!

父のため勝手に令旨を乱発したのですが、これが「朕を差し置いて!」と、後醍醐天皇を警戒させるきっかけとなってしまったようです。

征夷大将軍となるも讒言で失脚

やがて鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が隠岐から都に戻って「建武の新政」が始まると、天皇は護良親王に、比叡山に戻るよう促しますが、親王はこれを拒否。

足利尊氏が武家の中心として台頭し、戦乱の世が来ると主張したのです。

親王は征夷大将軍に就任しますが足利尊氏との対立は深まり、我が子を皇太子にしたいという阿野廉子(あのれんし)の画策もあり、親王は後醍醐天皇から帝位を奪うため、勝手に令旨を出して兵を集めていると讒言されてしまいます。

これを信じた天皇は彼を逮捕し、征夷大将軍を解任して十分に調べもせず鎌倉へと流罪。

後に北朝の立場で書かれた歴史書『梅松論』では、親王は「武家(尊氏)より君(父の後醍醐天皇)が恨めしい」と言ったとか。ちょっと同情します。

中先代の乱と親王の最期

親王は鎌倉で、尊氏の弟・足利直義(ただよし)の監視下に置かれます。

しかしその翌年、『逃げ上手の若君』の主人公・北条時行を奉じた東国武士たちが、建武の新政に反発して挙兵。各地で足利軍に連勝し、鎌倉に侵入しました。「中先代の乱」です。

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ここで直義は、北条時行らが親王を擁立することを恐れ、東光寺の土牢に幽閉されていた親王を殺害してしまいました。享年28歳(数え年)。

もし、前征夷大将軍だった親王と元執権・北条高時の子である時行が手を組めば、本格的な鎌倉幕府復活になって、後醍醐天皇や足利尊氏らを苦しめたかもしれません。

上れなかった親王の墓

ところでこの護良親王の墓は、二階堂という場所の山の上にありました。

鎌倉特有の地形・谷戸(やと)を利用して造られているそうです。

とても高い石段を登っていく墓所なのですが、残念?ながら、私達が訪れたときには、令和元年9月の台風の影響による崖崩れのため、この高い石段を登ることができませんでした。

やむなくここから参拝。この石段は、一体何段あるのでしょう?

この場所には護良親王が幽閉された頃、理智光寺という寺院がありました。

護良親王を殺害した足利直義の家臣・淵辺義博(ふちのべよしひろ)は、親王のあまりの死顔の凄まじさに恐れをなして、首をこの辺りの竹藪に捨ててしまったそうです。

それを当時の理智光寺の僧侶が拾って山上に埋葬したのだとか。

今回の鎌倉訪問では訪れることができませんでしたが、親王が幽閉されていた東光寺跡には、「鎌倉宮」という護良親王を祀った神社もあり、親王が幽閉されていた土牢も再現されています。

今度鎌倉を訪れたときには、是非行ってみたいなと思いました。

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