『おんな城主直虎』のストーリーの大枠は、江戸時代の中期に井伊家菩提寺である龍潭寺(りょうたんじ 浜松市北区)の僧侶・祖山が著した『井伊家伝記』に記載された彼女の事績を元に制作されているようです。
この本については、地元の伝承に基づいて記載されているため誤りもあり、龍潭寺の功績が強調されているなど、信憑性の点で問題があるとも言われています。
そして『井伊家伝記』には、もう1つ大きな問題がありました。
『井伊家伝記』には「井伊直虎」は登場しない!
昨日も書きましたが、『井伊家伝記』には、「次郎法師を女地頭(この時代には領主を意味します)に擁立した」という記述があります。
つまり、おんな城主は井伊家の姫君である次郎法師ではあるけれど、彼女は「井伊直虎」とは書かれていないのです。
一体なぜ、おんな城主の名前が「井伊直虎」になったのでしょうか。
そもそも、「井伊直虎」という名前は、どこにどのような形で登場するのでしょうか。
直虎が登場するのは一度だけ
現在「井伊直虎」の名が残っている史料としては、浜松市北区の蜂前(はちさき)神社に残る文書が唯一のものです。
その史料は「井伊直虎関口氏経(うじつね)連署状」と呼ばれ、現在浜松市博物館に保管されているそうです。
どのような文書かというと、これが今大河ドラマで話題になっている、「徳政令」に関するものなのです。
「徳政令」というのは、借りたお金を返済しなくてもよいという法令で、中世では戦乱や災害で借金をしたものの返済できず困っている人々を救済する目的で度々発令されました。
直虎はむりやり署名させられた?
ドラマでも描かれたように、次郎法師が虎松の後見人として井伊谷の城主になった頃、度重なる戦乱で井伊家も、井伊家の支配する農民達も借金に苦しんでいました。
この頃井伊家や農民達に金を貸していたのが、新興商人の瀬戸方久(ほうきゅう)。
大河ドラマでは、ムロツヨシさんが演じておられます。
ちょっとお茶目で物腰も柔らかいけれど、お金のためなら何でもしそうなしたたかさがあり、なかなか油断できない人物みたい。
今川家の当主・氏真(うじざね)は1566年(永禄9年)、井伊領内に徳政令を出すよう命令を下します。
この目的については、
- 今川家防衛のため井伊家領民に新しい城を築かせたいが負担が大きいので、まずは徳政令を出したという説
- 新興商人である瀬戸方久の台頭を快く思わなかった蜂前神社神主・祝田禰宜(ほうだねぎ)が、井伊家家老の小野政次と手を結び、瀬戸方久と井伊家を追い落とすために農民達を煽動し、今川家に徳政令を求めて訴えを起こさせた
という2つの説があります。
一見ありがたく思える徳政令ですが、もしこれが実施されると債権者(当時は「銭主(せんしゅ)」と呼びました)は破綻してしまい、銭主から金を借りている井伊家も資金繰りに行き詰まってしまいます。
瀬戸方久だけでなく、実は龍潭寺も銭主として経済活動を行っており、徳政令の実施で龍潭寺が破綻してしまう怖れもありました。
次郎法師はこの徳政令実施を2年間にわたって引き延ばし、その間に龍潭寺や瀬戸方久など銭主の権利も守るべく、免税などの手を打ちました。
しかしとうとう今川家の圧力に抗しきれず、2年後の1568年(永禄11年)11月9日に徳政令は施行されることとなりました。
このときの文書が、先ほど紹介した蜂前神社に残る「井伊直虎関口氏経連署状」。
この文書には直虎の署名と花押(かおう)が書かれています。
花押とは図案化されたサインで、身分のある男性が使うものでした。
内容は徳政令ですが、これに署名したときの直虎の心境は、果たしてどのようなものだったのでしょうか。
署名は「井伊直虎」ではなかった!
この「井伊直虎関口氏経連署状」は、現在「宗教法人蜂前神社」のサイトで見ることも出来ますし、蜂前神社ではコピーされたものが展示されているそうです。
雑誌などでも見る機会があると思うのですが、よく見ると大事なことに気がつきました。
署名は「次郎直虎」と書かれているのです。
「井伊直虎」や「次郎法師直虎」とは一言も書いていない!
写真は昨年春、奥浜名湖・舘山寺温泉のホテル内に展示されていた「井伊直虎関口氏経連署状」の複製です。
次回もこの話題を続けます。
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