奈良県葛城(かつらぎ)市にある當麻寺を訪れたのは、2010年(平成22年)12月のことでした。
當麻寺だけではなく、周辺にも面白い見所がありました。
地元の勇者・當麻蹴速(たいまのけはや)
この地方出身で有名な人と言えば、「當麻蹴速」という人物。
『日本書紀』によると、大和国當麻邑(むら)の勇者でした。
彼は自分の力の強さを誇り、生死を問わない勝負を挑む者を欲していたそうです。
何となく少年漫画に出てきそうな展開です。
時の垂仁(すいにん)天皇は、出雲国で勇者として評判が高かった「野見宿禰(のみのすくね)」を召しよせます。
当時都があったのは、今の奈良県桜井市。
今も桜井市にある穴師坐兵主(あなしにますひょうず)神社で、2人は対決します。
この2人の対決が、相撲の起源とされています。
天皇もこの試合を観戦したので、史上初の天覧相撲になるわけです。
当時は土俵もルールもなかったようで、互いに蹴り合って戦った末、蹴速は腰を踏み折られて死んでしまいました。
この戦い方を見る限り、今の相撲と全く違います。
空手、テコンドー、ムエタイのような感じだったのでしょうか。
そもそも「蹴速」という名前は、「素早い蹴り技の使い手」という意味なのでしょう。
蹴速塚
そんな蹴速でしたが、試合で負けて殺された上に、土地を没収されてしまいます。
蹴速の土地は、勝者である野見宿禰に与えられました。
生前の大言壮語の報いと言えばそうなのですが、少しかわいそうな気もします。
まさに踏んだり蹴ったりです。
でも地元の人達は、彼を大切にしてきました。
彼の墓と伝わる「蹴速塚」があり、五輪塔も建っています。
悲運の勇者を称えているようでした。
葛城市相撲館「けはや座」
蹴速塚の前にある建物で、相撲に関する資料展示や普及活動を行っています。
1990年(平成2年)に、當麻蹴速を顕彰するため開設したそうです。
バブル最後の年でした。
ちなみに、昨年(2016年)亡くなった千代の富士関が、大相撲史上初の通算1,000勝を達成した年でもありました。
「けはや座」には相撲に関する資料がたくさんあり、土俵に上がったりすることができます。
土俵と言えば、この施設が開設された1990年、当時の森山真弓官房長官が総理大臣賜杯授与を行いたいと希望したけれど、大相撲協会は女性の「土俵入り」を拒否。
2004年(平成16年)には、当時の太田房江大阪府知事が知事杯授与を希望したけれど、この時も大相撲協会は拒否しました。
相撲は純粋なスポーツではなく神事であり、土俵は神聖な場所のため、宗教上の理由で「女人禁制」とされているというのがその理由でした。
「女性差別ではないか」と、かなり物議を醸したものです。
修験道(しゅげんどう)の大峯山でも、女性の入山拒否で同じ問題が起きたとか。
一方この施設は「展示土俵」のため、女性でも誰でも土俵に上がることが出来ます。
私も上がってみましたが、思っていたより高くて、俵の形も完全な円形ではないなど、近くで見て初めて分かることがたくさんありました。
生まれて初めての「土俵入り」は、やはり緊張するものです。
相撲に関する展示資料は数も多く、かなり充実していて、葛城市が力を入れているように思われました。
番付表の見方については、英語やハングルでも解説されていて、外国人観光客にも理解してもらえるよう工夫されています。
また館内には無料観光休憩所も併設されていて、団体ツアーでも利用できそうでした。
毎月第1日曜日の午後には、相撲甚句の公演も行われています。
竹内(たけのうち)街道
大和国と河内国を結ぶ古代幹線道路の1つで、日本最古の官道と呼ばれています。
613年、推古天皇の時代に作られました。
大阪府堺市から竹内峠を越えて奈良県葛城市に至る道で、飛鳥に都があった時代には、遣隋使や遣唐使、留学生なども含め、多くの人々が行き交ったようです。
現在この辺りの竹内街道は、国道166号線に指定されていて、一見普通の道なのですが、道標を見ると道の歴史が偲ばれます。
當麻寺から少し歩くと、昔の面影を残す竹内集落もあります。
中将堂本舗(ちゅうじょうどうほんぽ)
近畿日本鉄道(近鉄)南大阪線・当麻寺(たいまでら)駅のすぐ前にあります。
電車の窓からも看板がよく見えるので、以前から気になっていました。
名物は「中将餅」という、よもぎ餅に餡をつけた、一口大の餅です。
伊勢の名物として有名な赤福餅によく似ていますが、中将餅は牡丹の花びらをかたどっているそうです。
店内でも食べられますし、持ち帰りも出来ます。
甘い物好きの同行者が、とても気に入っていました。
當麻寺土産にいかがでしょうか。
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