リヨン・パール・デュー駅からパリ・リヨン駅へ
リヨン市の観光を終えた私達は、いよいよ最終目的地のパリへ向け、TGVに乗り込みました。
TGVに乗ること約2時間、到着したのは、その名もパリのリヨン駅。
パリからリヨンに行く鉄道が発着する駅、という命名方法みたいです。
パリ・リヨン駅の構内には、だれでも演奏できるピアノがあり、腕に覚えのある人が自由に弾いていました。
こういう光景はパリだけでなく、以前から大きな駅では時たま見かける光景でした。
こういうところに、フランスの文化の懐の深さがあるような気がします。
パリのホテル
パリでの宿は、バスティーユ広場近くの、ホテル・コライユでした。
リヨン駅から少し歩く必要がありますが、大きな道に沿って歩くため、特に治安面での問題もありません。
パリのホテルはどこも料金が高くて、このホテル・コライユでもトリプルの部屋はなく、ツイン2部屋で予約を取りました。
部屋も廊下も、今までのホテルに比べるとやや古くて、狭いように感じます。
部屋が別々なので、廊下で少し話をしていたら、別の部屋にいた見知らぬ人から静かにするように注意されました。
フランス人はカフェやレストラン、そして街角などではとても大声でしゃべるけれど、ホテルではナーバスのようです(気を付けます)。
バスティーユ広場
1789年7月14日、パリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃したことにより、フランス革命の火ぶたが切られました(この日がパリ祭となって現在に至っています)。
バスティーユ襲撃を描いた絵は時々見るし、あの名作『ベルサイユのばら』でも取り上げられていたのですが、うかつにも、現在のバスティーユがどんな感じなのかは全然知りませんでした。
広場の中心に高い記念柱が建っていたので、てっきりバスティーユ襲撃を記念したものかと思ったら、ガイドブックによると1830年の七月革命(ブルボン王朝の国王シャルル10世が退位)で犠牲になった市民へささげたものだとか。
この革命を描いたのが、ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』という名作。
今回のフランス大統領選挙を報じたニュースでも、この名画がよく使われていました。
そしてこの七月革命の後に経済格差はますます強まり、貧しい民衆や共和主義者たちが、1832年6月に暴動をおこします。
『レミゼラブル』後半の山場になる事件です。
この事件の時も、バスティーユ広場周辺では革命騒ぎが起きていました。
現在では、フランス革命200年を記念して、ガラスとメタルを使った新オペラ座のオペラ・バスティーユ(写真右の建物)が完成し、最先端地区になっているようでした。
アラブ世界研究所
シュリー橋を渡り、サン・ルイ島を経てやってきたのは、アラブ世界研究所。
セーヌ川岸にそびえたつ、総ガラス張りの巨大で斬新な建物です。
壁面を覆う240枚のパネルは、太陽の光に応じて自動的に開閉し、様々なパターンを描き出すのだとか。
カメラの絞りのような仕組みで、採光を自動的に調整する役割があるそうです。
マシュラビーヤという、アラブ建築の窓飾りがヒントになっているようですが、なんとなくアラベスク模様とも似ているような気がしました。
この建物は、イスラム文化を体現するすぐれた現代建築に対して贈られるアガ・カーン賞を受賞しています。
そんなすごい建物なのに、相次ぐテロ事件の影響か(特にムスリムでテロを起こす人が多いからか)、建物前には警官2人組が警備しており、今回の旅行で初めて(そして唯一)、手荷物(リュックサック)の中を開けて警官に見せるように指示されました。
この旅行の10日ほど前に、パリのシャンゼリゼ大通りで警官に発砲して死傷させるというテロ事件があったばかりだし、週末には大統領選を控えているため、ピリピリしているのかもしれません。
他の観光施設(ノートルダム大聖堂など)でも、こんなに警備が厳重なのかな。
イスラム教徒に関係のありそうなこの場所だから、厳重に警備をしているのでしょうか。
ともあれ、私たちがここに来た目的というのは、屋上テラスからパリの街並みを眺めることだったのです。
あいにくの天気だし、カフェもまだ開いていなかったけれど、ノートルダム大聖堂などがよく見えました。
次はあのノートルダム大聖堂の前まで行ってみようかな。
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