タロコ渓谷歴史探訪1日ツアー(馨憶精緻民宿主催)その2 新城神社(天主堂)

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7月16日(日)の台湾観光のメイン、花蓮市の馨憶精緻(しんいせいち)民宿が主催する、タロコ渓谷歴史探訪1日ツアーの続きです。

どこか明るい台湾の墓地

七星潭を出て海岸沿いを走っていると、カラフルな建物が並んでいました。

これがなんと、お墓だというのでびっくり。

とてもカラフルで明るい感じです。

台湾では死ぬのは生まれ変わること、だからめでたいと感じる人もいるとのこと。

福建省が起源ともいわれる亀甲墓は沖縄のお墓というイメージがあったのですが、台湾にもあり、亀甲状の屋根が覆う部分は、母の子宮を象徴しているのだとか。

台湾原住民と日本軍の、度重なる衝突

私達が七星潭の次に向かったのは、新城神社(天主堂)という場所です。

『地球の歩き方』には載っていなくて、私もこのツアーで初めて知りました。

日清戦争で台湾が日本の統治下となってから間もなくの1896(明治29)年、タロコ地区の原住民監視を行っていた日本兵が、原住民セデック族の女性をレイプしたため、怒ったセデック族によって23人の日本兵が殺害され、首を狩られてしまいます(新城事件)。

セデック族は山岳部に住み、かつて首狩りの風習を持っていたタイヤル族の一部として分類されていましたが、今では独立した部族として扱われています。

日本軍は警察も総動員し、同じく原住民のアミ族(平地に住み原住民最大の人口を持つ)の部落に潜み、セデック族を攻撃しますが苦戦し、何とか犠牲者の首を取り返して撤退したようです。

この事件から10年後の1906(明治39)年、樟脳製造事業のため、日本人がタロコ地区に侵入。

原住民の聖域である狩猟地域に侵入された怒りと、賃金を巡るトラブルで、タイヤル族が日本人25人を殺害する事件が起きました(威里事件)。

これらの事件がきっかけになり、本格的なタイヤル族に対する討伐が行われ(1910~1915年の理蕃5カ年計画)、1914(大正3)年、太魯閣招魂碑が建てられました。

1937(昭和12)年、タイヤル族との激戦の地に神社が建立されましたが、第二次世界大戦が終わるとすぐに、本殿は取り壊されてしまいました。

激戦地に建つ鳥居

こういう説明を聞いてから鳥居を見ると、とても厳粛な気分になります。

これは第二鳥居ですが、「天主教会」と書かれています。

本殿は取り壊されましたが、鳥居や石灯籠は残され、1954(昭和29)年にここを訪れたスイス人宣教師が、神社の面影を残したままここに教会を建てたのです。

本殿以外は破壊を免れ、鳥居や石灯籠などが残っている珍しい神社として知られるようになりました。

この道の奥に、第一鳥居があるのですが、わかるでしょうか(赤と白のゲートです)。

威里事件のきっかけとなった楠もありました。

楠といえばトトロをまず連想するのですが、薬品や防虫剤、合成樹脂の先駆けとなったセルロイド(人工象牙)の材料として台湾や日本の経済を支え、一方ではそれが、原住民の土地を奪う原因ともなったのです。

第一鳥居正面の東屋に、新城事件で首を取られた日本兵の遺骨が集められたとか。

思わず心の中で手を合わせます。

レイプされた女性や、戦闘の中で亡くなった原住民にも心の中で手を合わせました。

石灯籠と狛犬とマリア様

第二鳥居をくぐると、石灯籠があったり(窓が赤く塗りつぶされているのは、何か意味があるのかな?)、松の木があったりして、まさしく神社です。

狛犬もちゃんと一対鎮座していますが、守護しているのは、なんと、聖母マリア様でした。

この狛犬の顔が面白くて、日本の狛犬よりも歯をむき出しているように見え、なんとなくネズミに似ていることに、娘が気付きました。

これが神社のもととなった太魯閣招魂碑で、1920(大正9)年に台湾軍司令官だった柴五郎が揮毫しました。

ちなみに彼は義和団事件で大活躍するのですが、少年時代に会津藩士として斗南(となみ 青森県むつ市)に配流されたときの辛い体験談が、私の中では印象に残っています。

ノアの方舟をイメージした天主堂

天主堂の建物は、ノアの方舟をイメージして設計されており、船形になっているとのことでした。

形よりもまず、建物を覆うツタと、花壇の美しい花々に注意が向いてしまい、本当に船の形をしているのかは、確認が取れずじまい。

天主堂内部には、手水舎の水盤が保存され(洗礼盤かな?)、石材の産地らしく、美しい石が奉納されていました。

外に出ると、庭の花々が一層鮮やかです。

美しい花々は、日本人と原住民との悲しい歴史で亡くなった人たちを、慰めているようにも思えました。

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