奈良今井町歴史散歩2 今西家住宅 町の裁判を担当した元戦国武士の陣屋

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環濠集落の面影

今井まちなみ交流センター「華甍」(はないらか)で今井町の歴史や町家について学んだあと、いよいよ本格的に町歩きスタート。

最初の目的地は、今井町の陣屋として、また町の西を守る城塞の役目も果たした惣年寄筆頭・今西家住宅です(地図の一番左にある赤い印)。

途中見かけた、橿原市立今井小学校も、周囲の町並みに配慮した外壁でした。

ここは「南町生活広場」という公共の場所ですが、中のテントでは保育所の行事が行われていました。

今井町を取り囲んでいた環濠も、徐々に復元されているようです(集落の南西隅)。

今西家住宅を見学

西の環濠を渡ると、すぐ目につくのが今西家住宅です。

とても立派な住宅で、何だかどこかで見たような気がする佇まい(重要文化財です)。

この今西家住宅は、『かんさい情報ネットten.』でも取材されていたらしく、内部を見学したかった(大人400円)のですが、建物正面にはこのような紙が貼られています。

ちなみに十市縣主(といちあがたぬし)今西家保存会という名称は、今西家が大国主神である事代主神(ことしろぬしのかみ)の子孫である古代豪族・十市縣主の末裔であることを示しているのだとか。

私達は予約もしていないし、あきらめるしかないのかなと思ったのですが、小さなくぐり戸が開いている気配がしたので、断られるのも覚悟で、ダメもとで入ってみました。

すると運よく今西家の女性(若奥様?)が先客に説明されているところで、一緒になって説明を聞くことができました(本当にありがとうございました)。

でも今西家の方々も、日々の生活やご予定もおありなので、見学を希望される場合は事前に予約して訪問されることをおすすめします。

住宅の中にお白洲が 今井町の裁判所でもあった今西家住宅

今西家住宅の、小さなくぐり戸を開けて中に入ると、すぐ目についたのは、とても広い土間でした。

なんとここは、裁判が行われていたお白洲だったのだとか。

梯子を上がった先には、拷問部屋のいぶし牢もありました。入ってすぐが男性用の牢。

土間の下から煙でいぶして自白を迫るわけで、下は男性用よりさらに奥の場所にある女性用の牢です。

ここで裁かれるのは軽犯罪だけだったらしく、むごたらしい拷問はなかったと説明がありましたが、それでも煙でいぶされるのはさぞつらかったことでしょう。

罪を自白すると、この戸口の外の牢屋に入れられました。

牢屋は1927(昭和2)年の北丹後地震で倒壊し、現在は残っていません。

波乱万丈・今西家の歴史

ここ今西家住宅は陣屋(代官の役所)でもあり、住居でもある面白い建物だったのです。

もともと今西家は川合と名乗る大和の地方武士で、今井町に浄土真宗(一向宗)の寺院(称念寺)を建て、町を環濠で囲んで自衛のために武力も備え、石山合戦の際には信長軍と半年近く戦いました。

称念寺の住職は町から脱出しても川合家は踏みとどまり、信長軍と戦い続けました。

しかし石山本願寺の顕如が信長に和睦を申し入れると、今井町は降伏を余儀なくされ、武装解除と引き換えに大坂並みの自治権を与えられました。

この時信長は、今西家住宅の南側に本陣を置き、川合家に様々な褒美を与え、裁判もこの後、川合家が執り行うこととなりました。

褒美の品の1つが上杉謙信から贈られた刀で、座敷に飾ってありました。

大坂夏の陣では大坂方の大野治房らと戦い、「今」井町の「西」口を守ったため、大和郡山城主・松平忠明(家康の外孫)から「今西」姓を名乗るように薦められたとか。

1679年、今井町は天領(幕府の直轄地)となって自治権は奪われ、今西家は武士身分から町人身分に変わりましたが、町の惣年寄筆頭職は代々務め、今井町支配の一翼を担いました。

明治になっても政府から、引き続き市中取り締まりを命じられていたそうです。

今西家住居に見られる工夫

現在の今西家住居は、1650年に建てられたことが、棟札から明らかになっています。

築367年という、戦国時代の構造様式を残している建物です。

今井町の西口を守るため、町の外に面する外観は城郭天守風で、二条城の外観に似ていると説明がありました。

どこかで見たような外観だったのは、そういうわけだったのです。

敵が攻め込んできたときに見通しが効かないように道を屈折させ、この建物も敵に対する楯となり、ほかの建物を守る働きをするように建てられました。

北側の道路に面し、町の人々が入る側の外観は、町家風で、いかめしさは感じられませんが、2階の窓は街道を見張るためにも使われました。

窓の右にあるのが、旧姓である川合家の定紋です。

お白洲を持つ惣年寄筆頭の今西家の土間には普段から、いろいろな訴えをする町の人々が自由に出入りしていました。

そのため一番奥の座敷(納戸)には、「くろろ」と呼ばれるオートロックのような仕掛けがあり、内部から完全に戸締りができるようになっていました。

土間と部屋の間も雨戸でしっかり戸締りでき、雨戸には今は煤で黒くなっていますが、うっすらと花などの絵が描かれていたのがわかりました。

ちなみに建物正面2階左側にある菱形の印は、武家の象徴である旗印だそうです。

震災に強い家づくり 昔の知恵からわかること

天井からほのかな光がさしていたのは、棟に直角に取り付けられた煙出しです。

天井にある3本の大きな梁も、とても印象的でした。

元の丸太の形をあまり変えない「瓜むき」といわれる加工法で、戦国時代の城郭建築の特色を残しています。

3本の梁のうち、色が薄い手前の1本だけは、昭和の解体修理の際に新しい木になりました。

しかし昔の木のように十分な自然乾燥ができておらず、また竈からの煤でいぶされることもなく、阪神淡路大震災の際には、この新しい梁だけ、大きなひび割れができてしまいました。

でも建物は無事だったのです。

梁の上の天井の構造物には釘を使っておらず、地震の揺れを吸収しました。

瓦も地震の際には落ちるようになっていて、屋根を軽くして建物を守る工夫がされています。

耐震工事などで災害に強い建物づくりが目指されていますが、昔の人の知恵は、遥かに進んでいたのかもしれません。

また、庭園も案内していただきましたが、石が1つ置かれていました。

これは「止め石」と呼ばれるもので、これ以上は先に進まないでねというサインでした(知らなかった)。

これ以上先には今西家の生活空間があるので、ご遠慮願いたいということですが、「立ち入り禁止」の看板だと無粋だけれど、この石を置くと風情があります。

耐震構造だけでなく、暮らしを楽しむ知恵も、昔の人に学ぶべき点は多そうだなと思いながら、今西家を後にしました。

突然の見学を、快く受け入れてくださって、どうもありがとうございました。

すごくわかりやすい説明で、普段ここで暮らしておられる今西家の方だからこそできる説明だなと思いました。

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