寺内町今井町の中心・称念寺
中世の大和国は興福寺の支配下にあり、今井町も興福寺領でした。
やがて浄土真宗(一向宗)の布教拠点が今井町に求められるようになり、念仏道場も建てられましたが、興福寺側の武士によって何度も破却されたと伝わります。
戦国時代になると、国人(国衆)と三好長慶や松永久秀との争いに乗じて浄土真宗の勢いは強まり、今井町に門徒(信者)や在郷武士、牢人らが結集してこの地に念仏道場を建立し、興福寺の弾圧も逃れることができました。
その境内地を中心として誕生した寺内町が、今井町なのです。
道場は後に称念寺となり、本堂は重要文化財に指定されていますが、残念なことに改築中。
工期は2010年~2022年の予定だそうで、工事のための仮屋もものすごく大きくて、大規模な工事なのだなと思いました。
境内には、明治天皇がここを訪れた時の記念碑も建っています。
ここで明治天皇は、西郷隆盛挙兵(西南戦争)の第一報を聞いたのだとか。
称念寺の向かいには今井町観光案内所があり、困ったときには力強い味方になってくれそうでした。
中橋家住宅
称念寺の斜め向かいに、重要文化財の中橋家住宅があります。
18世紀後半ごろに建てられた町家ですが、現在は非公開。
旧米谷家住宅
今井町で重要文化財に指定されている今西家住宅、豊田家住宅、高木家住宅は、いずれも見学する場合は料金が必要になります。
でもこの旧米谷家住宅は、無料で見学できました。
元々は「米忠」という屋号(代々の当主が、名前に「忠」の字をつけた)で、金具商・肥料商だったそうです(18世紀中ごろの建築)。
他の住宅と違い、ここは1956(昭和31)年、相続税の物納として所有者が手放し、国有になってしまったのです。
ガイドさんも常駐されているのですが、公務員なので、12:00~13:00はお昼休みとなります。
私達は不運にも、昼休みの1分前(ほとんど12時)に到着してしまい、「説明なしでダッシュで見る」ということで、住宅内に入れてもらえました。
土間の広い農家風の作りで、金具商らしく、土間には鍛冶場の痕跡もあるそうです。
竈はとても存在感がありました。
ど
今西家住宅と同様、屋根の上に煙出しがありますが、今西家よりは天井の構造は簡素です。
煙出しの構造は、江戸時代後期に建てられた高木家住宅と違うところで、農家風の面影だそうです。
主屋の部屋も独特で、ほかの今井町の民家が、土間に沿って2列・南北3部屋ずつの、計6部屋並ぶ構成なのに対して、一番北側の部屋が繋がって横長の一室となっており、変形5室の平面構成となっています。
中央の「なかのま」は茶の間、そして土間の作業場を見渡せる事務所的な役割もあったと思われます。
左の「みせ」からだんだんと、床が高くなっているらしいですが、パッと見ただけではわかりませんでした。
板の間の「みせ」と、物置代わりに使われていたと思われる畳敷きの「みせおく」です。
裏庭には、土蔵前に蔵前屋敷がありました。
江戸時代後期、1850(嘉永3)年建造の数寄屋風建築です。
以前蔵は3棟あったようで、現在は1棟のみですが、雰囲気のいいお座敷でした。
「生活」と「町並み保存」の共存を目指して
今井町は、1993年、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。
つまり、建築物だけでなく、町並み全体を保存していく地区に選ばれたというわけです。
この郵便局の丸い赤ポストも、この町並みにはとてもよく似合っていました。
京都の祇園、清水寺周辺、飛騨高山の合掌造り集落もそうだけれど、実際に人々が暮らしている町並みを保存するというのは、とても大変なことでしょう。
エアコンの室外機は、周辺の町並みに調和した色の覆いがされていました。
消火器も同様です。
空き家対策には今井町も懸命に取り組んでおられるようですが、やはり家を手放す人もいるのが現実。
道幅も狭くて、車が通るとちょっと怖い。
でも町家を改装した素敵な店があちこちにあって、観光客がまだ少ない分、とても落ち着いた、静かな時間が過ごせるのではないかなと感じました。
観光客にも、そこで生活する人たちにも、魅力のある町並みづくりが模索されているようです。
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