『おんな城主直虎』新たな主人公・井伊直政を支える松下一族とは

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NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』は、主役の直虎の活躍よりもむしろ、徳川家康に仕官がかなった井伊万千代(後の井伊直政)と、小野万福(小野政次の甥)の活躍にウェイトが置かれているような印象があります。

その井伊万千代を支えてきた、松下一族について調べてみました。

とにかくいい人!? 万千代の義父・松下源太郎清景

今回(10月8日放映『天正の草履番』)のドラマで一番印象に残ったのが、松下源太郎さんのいい人ぶり。

せっかく今まで育てて大きくして、後継ぎがいない松下家の跡取り「松下虎松」として徳川家康に仕官してくれるとばかり思っていたのに、ふたを開けてみると、育てた虎松は、「松下虎松」ではなく、「井伊万千代」として仕官することになってしまいました。

ショックで寝込むのもわかるし、激怒して当然、訴えて当然です。

でも結局は、父親としての広い心で虎松の行動を許し、しのさんにも優しく諭していました。

本当にできた人です(尊敬)。

虎松の母・しのさんも、亀之丞改め直親さんと夫婦生活を送った時よりも、数段幸せだったのではないでしょうか。

ここで、史実に登場する松下源太郎清景とはどんな人物なのか気になりました。

そして彼よりも、もっと以前からドラマに登場していた彼の弟・松下常慶。

今は普通のイケメン武士(もう少し笑顔が見たい!)ですが、少し前までは山伏でした。

この松下常慶という人物にも、なかなか面白い歴史が語り伝えられています。

この兄弟について、少し調べてみました。

白山信仰と松下常慶

この兄弟のうち、有名なのは弟の松下常慶の方です。

彼は生没年も伝わっており、1558(永禄元)年~1624(寛永元)年というから、かなり長生きした人物でしょう。

彼は(長男でなかったためか)出家して山伏となり、浜松市にあった二諦坊(にたんぼう)の住職となりました。

当時、加賀・美濃・越前にまたがる霊峰・白山を崇拝する山岳信仰が盛んでした。

白山から流れ出る豊富な水が田畑を潤し、豊かな恵みをもたらすため、白山の女神は水神や農耕の神として、またイザナミノミコト、妙理大菩薩(神仏習合)として崇められたのです。

中世には日本中に白山信仰が広まり、静岡にも白山神社は多く分布していました。

松下常慶は三河・遠江・駿河の白山先達(はくさんせんだつ)を任じられたとあります。

もし希望者がいれば、白山神社総本山・白山比咩(ひめ)神社(石川県白山市)の奥宮(白山山頂)に案内する仕事でした。

白山は標高2,702mで、ここに素人を引率して登っていくのは、登山家とガイドと団体旅行の添乗員と宗教家を一人でやるようなもの。

かなりの力量が必要だなと思いました。

「できる男・松下常慶」かな。

秋葉大権現のお札配り&諜報活動説も

一方、『井伊家伝記』では、松下常慶は山伏姿で火災防止に霊験あらたかとされた秋葉大権現(浜松市天竜区)の火伏札を配って歩き、国々の物見(状況視察)を行って、岡崎にいた頃から家康のもとにも出入りしていたと記されています。

家康軍が井伊谷を通って曳馬(ひくま)城(浜松城)を攻め、見事に陥落できたのも、松下常慶の的確な情報があったからだと言われています。

家康は浜松城を居城としてからも常慶を山伏に変装させ、各地の敵情を探らせていたそうです。

常慶の兄と虎松の母が再婚する以前から、常慶は龍潭寺にもよく出入りしており、南渓和尚と交流があったようです。

この常慶・南渓ラインで、虎松の母の再婚も決定されたのかもしれません。

南渓和尚はこの常慶に頼んで、虎松が家康に対面できるよう工作したのではないかとも言われています。

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2017年10月2日

また松下常慶は、台所や税務の技術に優れていたのか、兵糧の運搬を任されたり、引佐(いなさ)郡(井伊家の領地だったところ)の代官に任命されたりした後、勘定奉行に抜擢されました。

家康の寝所に忍び入った忍者を追い払うという功績もあり、子孫は火付盗賊改方勤務になったとか。

このような常慶さんならば、人のいい虎松の守役「六左」こと奥山六左衛門から、真相を「吐かせる」のも簡単なことなのでしょう(怖)

松下常慶の兄・源太郎清景(きよかげ)

この「できる弟」の兄・松下源太郎については、井伊万千代の義父であり、後に万千代が井伊直政となり、徳川家で頭角を現すとそれに付き従ったということくらいしか、世間に伝わっていません。

上野国箕輪(みのわ)城(群馬県高崎市)では家老として、かつての義理の息子だった城主・井伊直虎を支えていました。

1597(慶長2)年に、箕輪城下で死去したと伝わっています。

生まれた年がわからないので、何歳で亡くなったのかもわかりません。

お互い連れ合いを亡くした者同士として再婚した虎松の母と、いつ結婚したのかもよくわかりません。

ちなみに虎松の母は1585(天正13)年に亡くなりました。

虎松が「井伊万千代」として徳川家康に仕官した後、中野直之(「之の字」)の次男を養子にもらい受け、やがて彼の子孫は、井伊直政の長男の家系(与板藩井伊家)の重臣として続いたようです。

何だか井伊谷の人たちから、うまく利用されているようにも見えてしまう松下源太郎。

でも、こうなったら「井伊」も「松下」も関係ないという、ドラマでの源太郎さんの発言は救いでした。

「いい人」なお兄さんのために、知恵の回る弟も協力するというのは昨年の真田兄弟と同じで、そんな松下兄弟あればこそ、井伊家が再興できたのだとわかりました。

井伊万千代改め後の井伊直政は、どこまでこの「周囲の協力」と「不思議な縁」に感謝していたのでしょうか。

ちなみに、松下氏の館跡は浜松市南区頭陀寺町の頭陀寺第一公園の一角にあります。

詳しくは「~井伊谷~訪問記 松下屋敷跡(頭陀寺城跡」サイトをご覧ください。

この松下清景の従弟・松下之綱は、少年時代(まだ信長に仕える前)の木下藤吉郎の主人だったとか。

色々なところで、色々な有名人が複雑に絡み合っていますね。

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