西郷どんや仲間たちが生まれた町
昨年(2017年)4月1日(土)、西郷どんの生まれ故郷、下加治屋町を訪れました。
下加治屋町は、甲突(こうつき)川下流域(鹿児島市中央部)にあり、大河ドラマで西郷どんが毎回のように川に入って鰻を取っているのは、西郷家が甲突川の近くであることを印象付けているのでしょうか。
はたまた、「西郷どんは鰻好き」という印象を強めたいのか、ちょっとそれはわかりません。
ちなみにドラマや『週刊西郷どん 見せもす!舞台ウラ西郷家セット』(『西郷どん』公式サイトより)では、西郷家と大久保家が隣接しているように表現されていますが、実はこれはフィクションです。
ツリーハウスのような「物見台」や、中二階の屋根裏部屋(ロフト?)の西郷どんプライベート空間、やたらと屋根の上に上がる西郷どんなどなど、これも本当かどうかはわかりません。
でも西郷隆盛と大久保利通が同じ町内(郷中)で成長したのは事実だし(西郷隆盛の方が3歳年長の先輩)、ドラマと同様に多くの若者たちがこの町内で生まれ育ちました。
明治維新から日露戦争までの期間に活躍した政治家、軍人など明治政府の中枢の多くを加治屋町出身者が占めていることから、歴史小説家の司馬遼太郎さんは加治屋町について以下のように述べています。
いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである。 (「この国のかたち (二) 」)
薩摩藩の郷中(ごじゅう)教育とは
加治屋町とは、加治木町(現在の鹿児島県姶良(あいら)市)出身の家臣が移り住んだことで、「加治木」が訛ったのだという説があります。
この付近には鍛冶屋が多かったから、という説もあります。
鶴丸城から遠かった加治屋町は下級武士の居住地で、下加治屋町方限、上加治屋町方限などに分かれていました。
4~5町(約430~550m)四方の居住地のまとまりを「郷中」「方限(ほうぎり)」と呼び、そこに含まれる区画や集落に居住する青少年を年齢によって4グループに分け、それぞれのグループで「頭(かしら)」が選ばれました。
西郷どんは、下加治屋町の仲間たちから頭に選ばれ続けました。
頭は郷中での生活の一切を監督し、その責任を負います。
郷中での教育は、先輩が後輩を指導し、同輩は助け合うのが特徴で、学問も教えられましたが、武芸(体力鍛錬)や道徳教育が中心で、特に剣術(示現流)は厳しかったようです。
教育の根幹は、武士道を実践せよ、質実剛健であれ、武力を鍛錬せよ、弱いものいじめをするな、嘘をつくな、女と接するな、など、あの「ならぬことはならぬものです」で有名な会津藩の「什(じゅう)の掟」と似ています。
薩摩藩も会津藩も、武士の子供たちの基礎教育は、家庭と近隣社会(町内子供会?)に任せていました。
それがちゃんと機能しているというのは、近隣社会とのつながりが希薄な今となっては、少しうらやましいような気もします。
それにしても、『西郷どん』では「女と接するな」どころか、家を訪ねたり2人きりで歩いたり、おんぶしたりされたりなど、糸さんとはかなり大胆な?関係(西郷どんは自覚が全くないけれど)でしたね。
偉人たちの面影を訪ねて
下加治屋町は、江戸時代の遺物となるものは西南戦争の戦闘(1877年)や鹿児島大空襲(1945年)により焼失していますが、区画や通りは江戸時代当時のままとなっているそうです。
まず訪れたのは、西郷隆盛誕生地。
もちろん解説板も充実しています。
そのそばにあるのが「西郷従道(つぐみち)邸庭園跡庭石」。2000年に、東京都目黒区の西郷従道(西郷どんの弟。西郷家の三男)邸庭園跡が公園として整備されるのに伴い、庭石が鹿児島市に寄贈されました。
西郷従道は、征韓論争では大久保利通ら政府の側につきましたが、兄の隠棲所としてこの地を購入したものの西南戦争によって目的を達することができず、西郷家の別邸や本邸として利用されました。
この庭石は、紀州の青石、伊豆石、伊予の石でできています。
少し移動した場所にあるのが、「大久保利通生い立ちの地」碑。彼は高麗町で生まれましたが、下加治屋町に移り住み、西郷隆盛とは兄弟以上の強い絆があったと言われています。
この辺りはちょうど花見の会場にも近かったのでしょうか。大久保さんをラッピングした屋台が印象的でした。やっぱり大久保さんはイケメン!リンカーンによく似ています。今年も来るかなこの屋台。
大久保利通の銅像もこの近くにあります。ここからは、2007年4月に撮影したものです。
『西郷どん』第5話で、せっかく御前相撲大会の下加治屋町代表になったのに、腹痛のため西郷どんに代表の座を奪われた?村田新八の誕生地。
こちらは西郷どんの従弟になる大山巌(いわお)生誕地。
「陸の大山、海の東郷」と称された、日露戦争の日本海海戦で名高い東郷平八郎も、この町内の出身です。
他にも大正時代に総理大臣に2回就任した山本権兵衛(ごんのひょうえ)、随筆家白洲正子の祖父で初代台湾総督の樺山資紀(かばやますけのり)などもこの町内出身でした。
彼らは大河ドラマでどんな風に描かれるのかな。今後が楽しみです。
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