島津斉彬さまが命を狙われる理由
『西郷どん』第11話は、西郷どんというより島津斉彬さまがとても目立っていた話でした。
タイトルからして「斉彬暗殺」。
嫡男(跡継ぎの男子)である虎寿丸くんの突然死(相撲を取った西郷どん、責任取らなくていいの?)。
そして斉彬さまの食事に、ヒ素が混入されていたことが発覚しました。
しかも、混入には難易度が高そうな(普通に考えると汁物のほうが混入させやすそうだけれど)、焼き魚にヒ素が含まれていたことが、橋本左内さんの鑑定により判明!
銀の効果ってすごいんですね。
押しも押されぬ大藩の藩主一家の食事なのに(幕府から見たら外様大名の末席かもしれませんが)、お毒見役はいなかったのかな?と、他人事だけれど心配になりました。
最近読んだ話題の本・磯田道史さんの『日本史の内幕』によると、調理役や配膳役が毒見役になっているようだし、将軍家御台所(正室)は、3人分の食膳のうち2膳にランダムに箸をつけるという食事の作法があり、これで毒殺を回避していたのだとか。
斉彬さまの側近だって、それなりにセキュリティー意識はあったはずなのに。
斉彬さまは、実は大変危険な立場にあったのです。
島津斉彬 vs 井伊直弼
それが、今回の大河ドラマで初めて登場した歴史用語「将軍継嗣問題」。
ペリーが最初に来航したとき、将軍に就任していたのは12代将軍の徳川家慶(いえよし)でした。
しかしペリーが去った直後に家慶は病死(ペリー来航後19日後)。
家慶の唯一の子(ほかにも多くの兄弟姉妹がいたけれど、ことごとく死去。毒殺?)である家定ですが、幼いころから病弱で、毒殺を恐れ人前に出るのを極端に嫌うなど奇行も多く、父の家慶は、家定よりも一橋家の養子となった慶喜(父は水戸藩主の徳川斉昭)の方が将軍にふさわしいのではと考えていたようです。
その時は老中・阿部正弘の反対で、将軍後継者は家定となりましたが、実際に将軍になってみるとやはり彼は幕政に興味を示さず、体調は悪化。
正室も次々に死去し、子供にも恵まれませんでした。
列強が接近し、幕府の体制も動揺するこの内憂外患の時代、将軍がこんな状態では心もとない!と感じた大名がいたとしてもおかしくはありません。
それが島津斉彬や、福井藩主の松平慶永(春嶽)で、彼らは英邁の誉れ高い一橋慶喜を、将軍後継者にする運動を行いました。
当然、我が子の慶喜が将軍になれるかもということで、実父の徳川斉昭も応援します。
彼らは「一橋派」と呼ばれ、朝廷や大奥、そして家定本人にも、後継者を一橋慶喜にするよう働きかけました。
篤姫が、家定の3人目の御台所として嫁ぐというのも、家定を一橋派にするための手段の一つに過ぎないのです。
ところが、この動きに強い不快感や警戒感を示したのが、譜代大名筆頭・彦根藩主の井伊直弼。
徳川家定には従兄弟にあたる紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)が、幼いながらも血筋が近く、正当な将軍継承者であるとしました。
井伊直弼同様、将軍後継者は徳川家慶がふさわしいとする一派(譜代大名中心)は「南紀派」と呼ばれました。
井伊直弼にしてみれば、幕府の政治を担当できるのは、徳川家康が弱小戦国大名時代からずっと付き従っていた(つまり昨年の『おんな城主直虎』の時代から)、信頼できる家臣の譜代大名しかいない。
将軍の一族である親藩(水戸藩、福井藩)や外様(薩摩藩)が次の将軍を決めるなんて論外!なのです。
井伊直弼にしてみたら、自分たちの目指していることが今までの正統的な方法で、斉彬さまが考えていることは大変危険なことでした。
井伊直弼の家臣が、斉彬さまを毒殺しようとしても、不自然ではありません。
一橋派の政治工作員たち
一橋派の大名たちは、朝廷にも一橋慶喜擁立を働きかけ、表立って京都に行けない藩主の代理に京都で暗躍する工作員もいました。
それが薩摩藩の西郷どんや、福井藩の橋本左内だったのです。
彼らはそれぞれの藩主の腹心の部下として、政治資金を湯水のように使い(花街にも通ったでしょう)、公家や僧侶と密会して、天皇や公家たちを一橋派に引き込む工作をしました。
このような政治活動の陰で、家庭を顧みなかった西郷どんの結婚生活は破綻してしまいます。
のちに西郷どんと一緒に入水する、清水寺成就院の僧侶・月照も、一橋派と志を同じくする勤皇僧です。
一橋派と南紀派の争いはどうなるのか、篤姫と家定の仲はどうなるのか、そして西郷どんや彼らの仲間はどうなるのか。
今後の大河ドラマでお楽しみください。
今回のまとめ
将軍継嗣問題とは、14代将軍に誰がふさわしいかという二派の争い。
一橋派は、血筋より能力を重視して一橋(徳川)慶喜を推す一派。慶喜の父・徳川斉昭(水戸藩前藩主)、福井藩主松平慶永、福井藩士橋本左内、薩摩藩主島津斉彬、薩摩藩士西郷隆盛が主なメンバー。
今まで幕府の政治から締め出されていた親藩・外様の大名が中心で、いわば「改革派」。
南紀派は将軍との血筋を重視し、まだ幼い紀州藩主・徳川慶福(のち家茂と改名)を推す一派で、彦根藩主(のちの大老)井伊直弼など譜代大名が中心。
譜代大名が幕政を担当し、親藩や外様大名の幕政介入を警戒する「保守派」。
結局南紀派が勝利し、14代将軍は徳川家茂に。大老になった井伊直弼は、「安政の大獄」で一橋派を弾圧。
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