八条宮の生い立ち
当サイトで人気№1の桂離宮を造営したのは、安土桃山~江戸時代前期に活躍した、八条宮(はちじょうのみや)智仁(としひと)親王。
父は正親町(おおぎまち)天皇の皇太子(嫡男)ながら早世した誠仁(さねひと)親王で、八条宮は第六皇子として誕生しました。
兄が織田信長の猶子(ゆうし)に
正親町天皇が即位したのは戦国時代で、朝廷の財政はひっ迫し、天皇の権威も地に落ちかけていました。
織田信長は正親町天皇を保護するという名目で1568年京都を制圧し、朝廷の財政を回復させる一方、天皇の権威を利用して、敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させたと言われます。
1579年、信長は八条宮の兄、第五皇子の邦慶(くによし)親王を猶子にしました。
猶子とは「仮の養子」のようなもので、この場合は織田家と皇室との関係強化を狙ったもの。
信長は、まだ健在だった皇太子誠仁親王が次の天皇となった暁には、猶子である邦慶親王を次の皇太子とし、ゆくゆくは天皇の養父として、天下人の地位を盤石にする狙いがあったのでしょうか。
ところが1582年本能寺の変で信長が自殺、
新しい天下人・秀吉の時代となった1586年には誠仁親王が死去し、親王の嫡男(第一皇子)が後陽成天皇として即位しました。
豊臣秀吉の猶子となる
八条宮はこの年、兄が信長の猶子となったのにならい、豊臣秀吉の猶子となり、将来の関白を約束されていたといいます。
ところが1589年、秀吉と淀殿の間に鶴松が生まれたためこの話は解消となり、秀吉の奏請により所領が与えられ、八条宮家を創設することとなりました。
宮家創設は、秀吉のお詫びの印だったのでしょう。
徳川家康との関係
1598年に秀吉が死去すると、兄の後陽成天皇は実子・良仁(かたひと)親王ではなく、弟の八条宮に皇位を譲ろうと考えました。
しかし関ケ原の戦いを経て天下人となった徳川家康は、一度豊臣秀吉の猶子となった事実を嫌い、猛反対したのです。
結局徳川家康の意向で、天皇の位は良仁親王ではなく、後陽成天皇の女御が生んだ嫡男(第三皇子)の政仁(ことひと)親王に譲られ、政仁親王が後水尾天皇となりました。
文化人の八条宮
一方八条宮は、1600年(関ヶ原の戦いの2か月前)、戦国大名でも最高の文化人・細川幽斎(ガラシャの夫・忠興の父)から「古今伝授」を受けています。
これは『古今和歌集』の解釈を秘伝として、師から弟子へ伝えられたもの。
八条宮は、のちにこれを甥である後水尾天皇に伝えています。
彼はさらに造園の才にも恵まれ、桂の地に別荘を営みますが、これが桂離宮です。
残念ながら八条宮は造営途中で死去しますが、息子の智忠(としただ)親王が引き継ぎ、現在の桂離宮が完成しました。
最古の回遊式庭園として知られる桂離宮ですが、観月の行事や茶会、酒宴など社交の場として使われ、単に「見て楽しむ庭園」ではなかったようです。
今日の気づき
八条宮智仁親王は教科書にも桂離宮の説明でしか登場しないと思うのですが、調べてみると、信長・秀吉・家康と密接な関係がある人物だとわかりびっくり!
特に秀吉と家康には、煮え湯を飲まされたといっても過言ではないでしょう。
天下人の思惑によって、皇族の運命も左右されたのでした。
政治的に敗者となった八条宮ですが、文化人として名を残すことになります。
兄の後陽成天皇が、実の子供よりも皇位を譲りたかった八条宮は、きっと聡明な、見所がある人物だったのでしょう。
もし関白になっていたら、或いは天皇になっていたら、政務に追われてここまで文化に精進することができたでしょうか。
八条宮は関白や天皇の座から遠ざけられても、絶望したり、やけになったりすることなく、そのエネルギーを素晴らしい方向に発揮してくれました。
やりたいことができなくても、別の何か(しかもそれが有意義であればなお良い)に人生のエネルギーがぶつけられるという人生って、ある意味とても幸せではないかな、と思えました。
絶望のあまりひきこもるなど非社会的行動、或いは社会のルールから外れる反社会的な行動に向かわず、文化や造園に情熱を傾けてくれた八条宮に、私たちはもっと感謝してもいいのかもしれません。
コメントを残す