NHK大河ドラマ『西郷どん』ではとてもあっさりと描かれていた「生麦(なまむぎ)事件」を覚えておられるでしょうか。
大名行列に土下座しなかった外国人が殺された事件、というイメージを持たれている方も多いと思います。
一体どんな事件だったのか、少し詳しく調べてみました。
生麦とは横浜市鶴見区にあった村
事件は、1862(文久2)年8月21日に発生しました。
その1週間前、西郷隆盛が沖永良部島に到着しています。
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生麦というのは、事件の現場になった生麦村で、今の横浜市鶴見区にありました。
そこに島津久光の行列が通りかかります。
島津久光は大名ではなく、前薩摩藩主・島津斉彬の弟で、無位無官の人物です。
しかしまだ年若い薩摩藩主の父親で、薩摩藩では「国父さま」と呼ばれる最高権力者。
その島津久光は、亡き兄の斉彬が成し得なかった幕政改革を行うべく、700人の軍勢を引き連れ、勅使を奉じて江戸へ向かい、文久の改革を実施しました。
目的を果たした後、勅使の行列より一足早く、島津久光の行列は京都へ向かいます。
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その途中、東海道に沿った生麦村近くで、事件は起こりました。
行列に乱入した騎馬のイギリス人
帰路は400人の軍勢を率いた島津久光の一行が、生麦村に差し掛かった時、騎馬のイギリス人4名と遭遇しました。
上海から観光に来たチャールズ・リチャードソン、横浜在住の商人ウィリアム・マーシャルとウッドソープ・クラーク、香港から観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人(マーシャルの従姉妹)の4人。
彼らはこの日、東海道で乗馬を楽しんでいたとも、観光目的で川崎大師に向かっていたともいわれています。
イギリス人たちにすれば、いつ終わるとも知れない、長い長い行列が通り過ぎるのを待つなんて馬鹿げている、さっさとすれ違ってやり過ごそう!と考えたのでしょう。
行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎馬のイギリス人たちに対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明しましたが、イギリス人たちは「脇を通れ」と言われただけだと思いこみました。
行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進みました。
ついに久光の乗る駕籠近くまで近づいたものの、下馬する発想はなく、引き返すため馬首をめぐらそうとし、無遠慮に動いたため、数人が斬りかかり、深手を負ったリチャードソンは落馬し、とどめを刺されました。
他の3人は負傷したものの、その場を逃げ去ることができました。
なぜ事件は起きたのか
リチャードソンたちは、この日久光の行列があり、東海道を騎馬通行するのは危険だとと友人から忠告されていたようです。
事件が起こる前に島津の行列に遭遇したアメリカ商人は、すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて行列を乱さないように道を譲り、脱帽して行列に礼を示しており、薩摩藩士も外国人が敬意を表していると理解し、特に問題は起こりませんでした。
当時の『ニューヨーク・タイムズ』も、「この事件の非はリチャードソンにある」と評しました(自国民ではないので冷静)。
イギリスの一部にも、リチャードソンの非礼が事件の原因という声はありましたが、居留地商人(現地の風習を踏みにじることも辞さない人々も多かった)の強硬論や、被害者家族の訴えを無視することはできなかったようです。
事件の影響
1,島津久光
島津久光は事件翌日、神奈川奉行に対して「外国人殺傷事件は浪人が起こしたもので、薩摩藩とは無関係」と届け、その後「犯人は薩摩藩の足軽だが、異人を斬った後逃亡した」としらを切りとおしました。
実は島津久光一行は、江戸へ行く途中でも「外国人の不作法」に迷惑しており、これを何とかしてほしい!と幕府に訴えていました。
事件後、沿道の住民や孝明天皇は、攘夷を実行した久光を褒めたたえましたが、天皇や朝廷が攘夷一色に染まってしまったのは大誤算。
薩摩藩が幕府に圧力をかけたのは、幕府による外国貿易独占が不満だったためで、薩摩藩の意図は攘夷ではなかったのです。
やがて京都では、過激な尊王攘夷を唱える長州藩が、政局を牛耳るようになっていきます(これも久光や薩摩藩には大誤算)。
2.幕府
当時の幕府では、多数の軍勢を伴って幕府の最高人事に介入した久光に対して、敵意を持つ見方が一般的。
そのため「薩摩は幕府を困らせるために、わざと外国人を怒らせる挙に出た」と受け止める幕臣が多数で、薩摩を憎みイギリスを怖れることに終始し、対策も方針もまったく立てることができません。
また、薩摩藩がすでに往路で事件が起こりかねなかった状況を訴えていたにもかかわらず、島津久光一行の東海道通行と、それにともなう外国人通行自粛の要請を、幕府が各国公使館に正式に通告していなかった問題は、イギリスとの交渉の際、幕府にとって不利な条件となってしまいました。
3.横浜居留地
この事件はそれまでの攘夷事件とは違い、大名行列が絡んでいたため、各国公使ら居留民が集まって開かれた対策会議でも「島津久光、もしくはその高官を捕虜とする」という議題が挙がっていました。
居留民の中には武器をとっての報復を叫ぶ人々も多かったようですが、イギリスのニール代理公使は冷静で、現実的な戦力不足と全面戦争に発展した場合の不利を説いて騒動を押さえ込み、幕府との外交交渉を重んじる姿勢を貫きました。
やがてイギリスは、幕府から賠償金10万ポンドを手に入れるも、薩摩藩との交渉は不調に終わり、撮影戦争に突入します。
今回の気づき
今回、一番気になったのは「コミュニケーション不足」。
相手の国の文化に無理解だったイギリス人観光客も、島津久光の訴えを放置していた幕府も、コミュニケーション不足だったと思います。
こういう事件は、幕末の横浜だけでなく、いつでもどこでも、これからも起こりうるかも知れません。
観光旅行の面白さは、現地の文化を学ぶことにもあると思います。
相手の文化や風習、宗教に敬意を表し、異文化コミュニケーションをはかることが、これからますます必要になってきます。
生麦事件のような悲劇が、もう二度と起こらないようにしたいですね。
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