勝海舟や西郷隆盛が登場する『西郷どん』28話は、第一次長州征討が中心でした。
どんどん焼けは誰のせい?
その前に、禁門の変が京都に与えた被害の大きさが紹介されました。
「どんどん焼け」と呼ばれるこの戦争による火災で、2万7千世帯が焼失し、戦闘による死者と同じくらいの焼死者が出ました。
原因は長州藩や薩摩藩による放火のようですが、京都の人々は尊王攘夷を唱える長州に対しては、とても同情心が強かったのです。
また薩摩藩も、長州藩の本陣である嵐山の天龍寺を襲撃し(放火しています!)、兵糧米を没収して被災者に施し、人気回復に努めています。
西郷隆盛の任務の1つが、京都で薩摩藩人気を高めることでした。
こうして本当の加害者である長州や薩摩の責任は問われず、京都の人々から評判の悪い会津藩や新選組が、いつの間にか「禁門の変で長州残党狩りのため放火をした」と恨まれるようになってしまいました。会津藩は気の毒すぎます。
会津藩ももう少し、京都の町で派手にお金を使うとか、人心掌握やPRに努めればよかったのでしょうか?
第一次長州征討 西郷隆盛の本心は?
禁門の変に敗北した長州藩は朝敵となり、長州藩追討の勅命が出されます(この件に関しては、孝明天皇の意思も大きいです)。
禁裏御守衛総督(京都御所警護の責任者)である一橋慶喜の命令に応じて、薩摩藩も出兵。
本質的に「薩摩ファースト」で他藩を信用しない西郷隆盛は、この際政敵の長州藩を、徹底的に叩き潰す気持ちもあったと言われています。
またそれとは別に、ここで薩摩藩が中心になって戦えば、薩摩と長州が共倒れになって、一橋慶喜の思うつぼになるのでは?と警戒していたという説もあるようです。
一体どちらなのでしょう?
先日お話を伺った町田明広先生によると、一橋慶喜との関係が悪化している島津久光は、莫大な戦費を伴う長州征討を、幕府の奸計による薩摩滅亡策だと考えていたとか。
ともかく勝海舟との会談の後には、長州に対して、武力を使わず恭順させる緩和策(長州人に始末させる)で臨むことを決意したようです。
西郷隆盛の必勝方程式
その後10月に征長軍参謀に任命された西郷は、総督の尾張藩主・徳川慶勝から長州処分を一任されます。
西郷隆盛は、難しい相手と交渉する場合、独特の戦略スタイル(勝利の方程式)で乗り切ろうとする傾向がありました。
まず、相手の根拠地に丸腰で乗り込む。
そして相手のトップと、腹を割って話し合う。
この第一次長州征討の時も、吉井友実・税所篤を伴って岩国に赴いた隆盛は、岩国藩(長州藩支藩)主・吉川監物(きっかわけんもつ)と会談しました。
参謀と藩主の、まさしくトップ会談実現です。
西郷の出した条件は2つでした。
まず、出兵を主張した長州藩三家老らの処罰。
出兵=敗戦=朝敵となった責任は、藩主ではなく家老の首で許してやるというのです。
最終的に「そうせい」と藩主が決定したとしても、ここは藩主ではなく、家老が切腹というのは妥当なところでしょう。
もう1つは、八月十八日の政変で長州に落ち延びた五卿(七卿のうち1名死亡、1名行方不明)を他藩に移す(五卿動座)こと。
これさえ守れば、征長軍を解散させると申し入れたのです。
五卿の動座については、「尊王攘夷の精神的シンボル」というわけで、奇兵隊ら長州藩諸隊が強硬に反対します。
この時も西郷は、諸隊本部の下関に乗り込んで直談判。
土佐藩浪人中岡慎太郎らの協力もあり、五卿は福岡藩が預かることとなって、第一次長州征討は戦うことなく終了しました。
今回の気づき
ドラマでは、岩国藩に乗り込んだ西郷どんの活躍しか描いていませんが、個人的には岩国藩よりも下関に乗り込んだ時の方が危険度が高かったかも、と思っています。
中岡慎太郎さん、なかなか出番がないですね。
そして、ドラマではやたらに「民を守る」という言葉が出てきますが、この時の西郷隆盛の本心は、多分、どうすれば薩摩藩が最小の犠牲で最大の利益を得られるのかということだったでしょう。
西郷隆盛だって、きれいごとで戦争や政治はできないとわかっているはずなのです。
幕末京都編の第3クールになって、ちょっとダークな面も見せる西郷どんですが、江戸でのテロ行為を、ドラマでは果たしてどのように描くのでしょうか。
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