日本と近いロシア
ロシアはどちらかというと「遠い国」というイメージがあります。
政治の中心地であるモスクワや、観光客が多く訪れるサンクトペテルブルクは確かに日本からは遠いですが、日本海沿岸に位置する沿海州の州都・ウラジオストックは、成田空港からわずか2時間という距離です。
沖縄より近い!
そんなウラジオストックや、極東ロシアの中心地であるシベリアのハバロフスクや、バイカル湖のほとりにあるイルクーツクをこの夏訪れ、少しロシアを身近に感じることができました。
ちょうどそんなとき、神戸とロシアのかかわりについて、神戸市市長室国際部国際課の丹沢靖さまから、興味深いお話を聞くことができました。
安倍総理とプーチン首相の北方領土交渉のニュースも先日から大きく報道され、ますますロシアから目が離せなくなりそうな今、神戸とロシアとの歴史の一端を、少しご紹介しましょう。
兵庫から神戸へ移った開港地
神戸にロシア人が住み始めたのは、幕末1858年に結ばれた日露修好通商条約で、兵庫の開港が約束されたためです。
他の開港地として、長崎、函館(当時は「箱館」)、神奈川、新潟が知られています。
しかし神奈川は東海道の宿場町、そして兵庫は古代以来の大きな港町(平清盛が整備した「大輪田泊」)で市街地も広がり、ここに外国人(ロシアだけでなく、アメリカ、イギリス、フランス、オランダとも条約調印)が住めば、日本人と接触する機会が多くなり、好ましくないとして、神奈川は横浜、兵庫は神戸という、もっと寂れた場所が開港地とされました。
横浜や長崎、箱館では1859年から貿易が始まりましたが、神戸の場合は外国人嫌いの孝明天皇が抵抗したため、開港は1868(慶応3)年と遅くなりました。
革命から逃れたロシア人
神戸開港後、外国人居留地内に、ロシア領事館が設置されます(1881年)。
現在関西では、ロシアに行くためビザを取得しようと思えば大阪府豊中市にある「在大阪ロシア総領事館」へ行かねばなりませんが、昔は神戸にあったのです。
ロシア皇太子が襲撃された大津事件や、日露戦争中では、神戸のロシア人たちはどんな風に暮らしていたのかなと、少し気になりました。
そして大正時代、ロシア革命が勃発すると、共産主義革命を嫌って多くのロシア人が祖国を脱出し、日本に亡命してきました(いわゆる「白系ロシア人」)。
その中でも有名なのが、神戸で製菓会社を設立したこの3人。
1人目はフィヨードル・ドミトリーエヴィッチ・モロゾフ。
満州のハルビンからアメリカのシアトルを経由して神戸に移住し、西洋化していく日本に目を付けて、チョコレートを中心に洋菓子店を開店します。
これが現在の神戸モロゾフ製菓です。
しかし共同で経営していた日本人・葛野友槌との関係が悪化し、モロゾフ父子は神戸モロゾフ製菓と袂を分かつことになりました。
2人目はヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフ。
フィヨードルの子で、横浜のインターナショナルスクールを辞め、父の設立した神戸モロゾフ製菓で菓子職人をしていましたが、父とともに会社を去り、「モロゾフ」という名前を使用することができなくなりました。
終戦後、コスモポリタン製菓を設立し、1947年には、昭和天皇にチョコレートを献上しています。
しかし彼の死後、2006年にコスモポリタン製菓は、業績不振を理由に自主廃業してしまいました。詳しくはこちら。
3人目はマカロフ・ゴンチャロフ。
日本で初めて、ウィスキーボンボンを作った人物とされています。
日本人と共同でゴンチャロフ製菓を設立し、モロゾフ父子とは一時協力関係にあったようです。
戦前の日本は、ロシア人には住みにくかった?
ところがこのゴンチャロフ、1934(昭和9)年に会社を日本人に譲渡し、オーストラリアへ出国してしまいます。
その後の彼の消息は、不明なのだとか。
彼の出国原因の1つとして、その前年に締結された「日独伊防共協定」を挙げる説があります。
ロシア人=共産系ロシア人=危険思想の持主であり、仮想敵国の人物
という図式が、日本では強くなっていた時代でした(共産主義革命がおこると、天皇制や資本主義社会は崩壊します)。
ゴンチャロフにしろ、モロゾフにしろ、このような世相の中で、自分たちは共産主義に抵抗して移住してきたロシア人だと主張してもわかってもらえず、色々不利なことがあったのでしょう。
国と国との関係が悪くなると、民間レベル、個人レベルでの交流にも支障が出ます。
ゴンチャロフやモロゾフの話は、遠い過去の話ですが、同じようなことが起こらないようにしていきたいものですね。
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