大河ドラマで学び直せる日本史 城山の戦いと西郷隆盛の最後(『西郷どん』第47話)

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とうとう『西郷どん』も最終回になりました。

薩摩軍の敗走

西南戦争中、資金難に苦しんだ薩摩軍は、資金調達のため大量の軍票=西郷札(さつ)という疑似紙幣を発行。

各地の士族たちを強制動員するなどして、兵員の補充も行いますが敗北が続きます。

西郷は、戊辰戦争では参謀として討幕軍を指揮したのに、西南戦争では自分が積極的に指揮することもなく、暗殺を警戒して、人前に姿を現すこともほとんどありませんでした。

1877(明治10)年8月16日、薩摩軍は長井村(宮崎県延岡市)で政府軍に包囲されてしまいます。

ここで西郷は、明治天皇の命令書を目にし、自分たちが朝敵にされたことを知りました。

ちょっと遅くないですか? 熊本で気が付かなかったのが、つくづく不思議に思われます。

翌日西郷は、解軍の令を出して陸軍大将の軍服を焼却し、愛犬2頭を放します(そのうちの1頭は、鹿児島の西郷家まで歩いて帰ったそうです)。

この後、薩摩軍4千人以上が投降し、負傷者も投降を指示されました。

その中には、右足膝下切断の西郷菊次郎(16歳)も。

菊次郎は熊吉に背負われて戦線を離脱し、これが父親との最後の別れとなりました。

西郷はその夜、精兵500人と共に可愛岳(えのだけ)を登り、頂上から一気に下山攻撃して政府軍の食料や弾薬を奪い、政府軍の包囲を突破して山岳地帯を踏破しながら鹿児島へ戻りました。

肥満体の西郷は、竹駕籠に乗ったり、兵士に綱で引っ張り上げられたりしながら、敗走を続けたそうです。

城山での戦い

薩摩軍を見失った政府軍は、鹿児島周辺に兵力を集中させます。

それ以前の4月27日、政府軍が鹿児島を占領し、西郷家も永吉村(鹿児島県日置市)へ避難しました。

この戦いで島津久光は、どちらにも与しない中立の立場を貫き通しています。

鹿児島では、敵味方に分裂した留守家族間の対立も激しく、大警視の川路利良(としなが)や、政府側軍人の留守宅が襲撃され、徹底的に破壊されました。

9月1日、薩摩軍は鹿児島に突入し、私学校を奪還。

下の写真は、城山の薩摩軍陣地。鹿児島市の西郷洞窟前にありましたが、大河ドラマ最終回のセットとそっくり!

『西郷どん』ゆかりの地を訪ねて 鹿児島市内に残る西郷隆盛の史跡 

2018年12月16日

しかし翌日、政府軍第二旅団が鹿児島に到着して、薩摩軍を私学校裏の城山に追い詰めます。

6日には八個大隊が到着し、城山包囲網が完成。

城山に籠り洞窟に起居する薩摩軍は350人、一方政府軍は6万人でした。

山県有朋の手紙

政府軍の中には、政府軍の事実上の総指揮者である陸軍中将・山県有朋(やまがたありとも)など、西郷を心から尊敬し、慕う者もたくさんいました。

山県は23日、西郷へ自決を勧める書状を送っています。

その書状は、大義名分のない挙兵は西郷の意志ではなく、周りの暴走ではないかと西郷の心情を慮った上で、これ以上犠牲者を出さないため、西郷に自決を勧めたものでした。

この手紙を、大河ドラマで村上新悟さんの素敵な声で、読みあげてほしかった!

西郷と大久保との間で、山県有朋も揺れ動いていたのです。

この手紙に、西郷が返事をしなかったため、翌日の総攻撃となりました。

薩摩出身の海軍軍人で、西郷の親戚でもある川村純義からの降伏の勧めも、無視しています。

24日の城山総攻撃の前夜、政府軍は城山に向けて葬送曲を演奏しました。

城山総攻撃

24日午前4時、政府軍砲台からの3発の砲声を合図に、総攻撃は開始されました。

西郷・桐野利秋・桂久武・村田新八・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は西郷が籠もっていた洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃。

途中、桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続きます。

でも断じて!川路利良(としなが)は、桐野利秋を狙撃していません!

村田新八さんも、西郷どんより早く死んでいません!!

どうして大河ドラマは、こんなシーンになったんだろう???

午前7時過ぎ、腰と太腿に2発の銃弾を受けた西郷は、「もうここらでよか」と別府晋介に介錯させて自決します(享年49歳)。

隆盛の死を見届けた桐野利秋や村田新八らも全員玉砕。上の写真は「西郷隆盛終焉の地碑」です。

『西郷どん』ゆかりの地を訪ねて 鹿児島市内に残る西郷隆盛の史跡 

2018年12月16日

西郷隆盛の首と胴体は、分離していたのですが、大河ドラマは違っていましたね。

西郷の首と山県有朋

別府晋介らは、西郷の首を土の中に隠しました。

大久保利通が、江藤新平の時と同様、西郷の首をさらして、政府の宣伝に使うかもしれないという疑いがあったと言われています。

しかしその首は、元金沢藩の千田登文(せんだとぶみ)中尉によって発見されました。

胴体の方も、巨体や幼少の頃の右腕の刀傷、肥大した睾丸などによって、西郷本人と断定されます。

山県有朋は、運ばれてきた西郷の首を見て、黙礼してその眼を開き、口の中を見て、「西郷さんの泰然たる容貌は少しも平静と替わるところがない。髭は1日か2日前に剃られたんだな」と言いました。

そして「自分はかつて、西郷さんの恩恵を受けた。西郷さんは不幸にして方向を誤り、今日の悲しい境遇に陥ったのは、まことに遺憾に堪えない」と涙を流しながら、幕僚に「賊軍鎮定」の電報を打たせたと言われます。

政府軍戦死者数6,400人、薩摩軍戦死者数6,800人という犠牲を出した西南戦争は、こうして終わりました。

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