ドキッとする地名「血洗島」 その語源は?
今年度のNHK大河ドラマ『青天を衝け』が、いよいよ始まりました。子役たちが可愛いですね。
渋沢栄一が生まれた村の名前は「血洗島(ちあらいじま)」と言います。
現在もある地名で、渋沢栄一の生家「中の家(なかんち)」の住所表記は、 深谷市血洗島247-1。
関東に全然なじみがなく、渋沢栄一のことを知るまで深谷市のことも「深谷ねぎ」と「ふっかちゃん」しか知らなかった私達。
「血洗島」という地名を聞いて、正直ドキッとしてしまいました。
どういう由来で、こういう物騒な(失礼!)地名になったのか、謎ですよね!
後三年の役で東北に向かう源(八幡太郎)義家の家臣が片腕を切り落とされ、その血を洗ったことに由来するという説 や
利根川の洪水による氾濫原であることから、もとは「地洗」(ちあらい)、「地荒」(ちあら)だったのが、「地」の字がいつの間にか「血」となった説
さらには
気仙(けせん)沼や厚岸(あつけし)など、アイヌ語の「岸・末端・尻」などを意味する言葉として血洗(けっせん)という字を充てられ、やがて訓読みで「ちあらい」と読んだという説
など、諸説多々あるようでした。
実は渋沢栄一も、生誕地である「血洗島」の名前の由来をよく尋ねられたのだとか。
「恐ろしげなるこの村名のかげには幾多の伝説や口碑とが伝わっている。しかしそれは赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕をひしがれ、その傷口をこの地で洗ったという」というのは、栄一が『龍門雑誌』に書いた血洗島の由来。
ちなみにこの『龍門雑誌』は、渋沢栄一邸に寄宿する青年たち(栄一の長男含む)勉学や成果発表の場として、1886(明治19)年に組織された「龍門会」の機関誌です。
現在、龍門会は公益財団法人渋沢栄一記念財団となり、『龍門雑誌』は『青淵(せいえん 渋沢栄一の雅号)』となって現在も発行を続けています。
栄一の師・尾高惇忠(新五郎)の出身地もユニークな地名だった
「龍門社」の命名者は、尾高惇忠(じゅんちゅう)。通称は新五郎で、ドラマでも「新五郎兄ぃ」と子どもたちから慕われていますね。
栄一の10歳年上の従兄弟であり、学問の師であり、後に義兄ともなるすごい人物。
彼の出身地は、血洗島の隣村となる下手計(しもてばか)村で、栄一は毎日学問を習いに通いました。
この「手計(てばか)」という地名にも、その由来が諸説あるそうです。
血洗島の由来にも登場した「片腕を切られた源(八幡太郎)義家の家臣」が、その手を埋めた手墓(てばか)が、手計(てばか)になったという説
アイヌ語で「崖」を意味する「はか」、或いは縄張りや垣根を意味するという竹幌(たけほろ)が、手計幌と表記され、手計となっても「てばか」と読まれた説
など、ユニークな説が並びます。
手計の由来はよくわかりませんが、血洗島の場合は、「利根川の氾濫で元々地洗、地荒だった」という説が可能性が高そうに思います。
江戸時代になると、この地方は河川交通の要衝として繁栄。
栄一や尾高惇忠の生家に近い「中瀬河岸」(深谷市)には、江戸の経済・文化の情報がいち早く伝わり、学問を尊重する気風も生まれたのだとか。
この気風があるからこそ、渋沢栄一や尾高惇忠が学問に励み、経済のセンスも磨かれていったのかもしれません。
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