なまこ壁の建物にまつわる悲劇
2020年8月(あの土石流災害の1年前)、熱海を訪れる機会がありました。
2泊3日の予定だったのですが、3日目は思い切って、下田に行くことにしました。
最初の目的地、下田白浜神社を訪ねた後、
目指したのはペリーロード。やはり下田といえば、ペリーがまず浮かびます。
ペリーロードに行くまでに、偶然見かけたのがこの建物。なまこ壁が美しい!
なにか雰囲気のある建物だなと思って、よく見ると、説明板があります。ここは「唐人お吉」が晩年に開いた小料理屋・安直楼だったのです。
幕末下田に駐在した米国総領事ハリス(遅々として進まない通商条約締結交渉で体調を崩していた)の看護人として、下田奉行所から派遣された下田の芸妓「きち」は、高い報酬を得たものの「異人の妾」と誤解され(しかも腫物があるのですぐに解雇されたらしい)、「唐人お吉」と呼ばれました。
酒癖が悪く、幼馴染と所帯を持ってもすぐに破局。
アルコール依存症と思われますが、依存症になった原因は、世間の冷たい目や偏見だったのでは?
この店も、彼女の経営能力のなさと酒癖の悪さから、早々に潰してしまったのだとか。晩年は健康も財産も失い、川に転落して亡くなったそうです(享年48歳)。
お吉は、開国で運命を狂わされた代表的な人物の1人と言えるかもしれません。
なお、この日は安直楼の内部見学は不可でしたが(2階にはお吉の遺品や当時の座敷が残っている)、下田市には他にも「唐人お吉記念館」など、彼女ゆかりの地がたくさんあるようでした。次回訪れた時は行ってみたいな。
「唐人お吉」誕生の原因となった日米和親条約
お吉が「唐人」と呼ばれたのは、米国総領事ハリスの看護人となったから。
そしてハリスが駐在したのは、ペリーが黒船で再来航し、横浜に上陸して日米和親条約(神奈川条約)を結んだからです。
ただし、日本語の条約と英語の条約では、総領事設置について(第11条)の文言がかなり違っていて、ちょっとフェアじゃないような気もしました。
「兩國政府に於て無據儀有之候時は」vs「provided that either of the two Governments deem such arrangement necessary」
これだと、日本は金輪際アメリカの総領事なんか必要としない!と言えば永遠にお断りできそうだし、アメリカは「我が国が必要だから」と言ってさっさと総領事を駐在させることができます。実際ハリスが着任してきたときには、外交問題になったのだとか。
でも日米和親条約もフィルモア大統領の国書同様、日本語、英語に加えて漢文版、オランダ語版が作成されて内容の確認が行われているというので、幕府側は英語版の中身を知っているはず。知っていたけれど、ペリーにうまく丸め込まれたとか?
日本語版は、開国反対派の徳川斉昭などに配慮した内容だったのかな? 後々もめることはわかっていたのかな?
「日米和親条約」と言えば、通商はせず補給基地として下田と箱館(現・函館)を開港したとか、アメリカに一方的な最恵国待遇を認めた点などがよく知られていますが、この総領事設置問題も、なかなか興味深いなと思いました。
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