白旗神社から源頼朝の墓へ
2021年3月初旬、鎌倉を訪れました。今回の旅の目的は、『鎌倉殿の13人』に登場する北条氏や鎌倉幕府に関係する場所に行ってみること。
大倉幕府跡を訪れた後は
源頼朝の墓参り。
大倉幕府跡から北へ徒歩でたった5分ほど。大倉幕府跡を訪れるのなら、ぜひ頼朝の墓参りもお勧めです!
お墓の入り口には、源氏にちなむ白旗神社(鶴岡八幡宮の境内にも白旗神社はありますが、それとは別)。
この石段を上がっていきましょう。
階段を上がると、石塔があります。これが源頼朝の墓なのです。
昔はもっと様子が違っていた頼朝の墓
実は鎌倉時代の頼朝の墓は、「法華堂」と呼ばれる建物でした。墳墓の上や傍らに法華堂を建立したそうです。現在と違い、当時は遺骨は重要視されず、寺を建立して故人を葬るのが京都や鎌倉の上流階級の風習でした。
この岡一帯に、建物があったのかな。
生前の頼朝が流人時代から念持仏としていた観音像を祀っていましたが、江戸時代には建物は廃絶。
その後、薩摩藩主の島津重豪(しげひで 斉彬や篤姫の曽祖父)が、1779(安永8)年に石塔を建てました。
法華堂の石段下には、頼朝を神として祀る白旗神社が建てられたそうです。
ちなみに頼朝の妻・北条政子と次男の実朝の墓は、寿福寺にやぐら(横穴形式の墓)として伝えられていますが、これも確たる証拠はなく、本来の墓は法華堂で、やぐらの石塔は供養塔ではないかとする説もあるようです。
源頼朝の死と、稲毛重成の不運
源頼朝は1198年12月27日、相模川で行われた橋供養の帰り道に落馬してしまい、それが原因で翌年1月亡くなったと言われています(享年52歳)。
この相模川の橋を架けたのは、『鎌倉殿の13人』にも少し登場した、北条義時の妹を妻にした稲毛重成(いなげしげなり)という御家人。
同じく北条義時の妹を妻にした畠山重忠(坂東武者の鑑)は、従兄弟にあたります。よく出来た従兄弟ですね!
相模川の橋は稲毛重成が亡き妻の供養として架けたのですが、これがとんでもない事態を引き起こしたのでした。
更に1205年、従兄弟の畠山重忠とその子重保が滅ぼされ、彼らは無実だという声が高まると、畠山重忠を陥れたのは稲葉重成だとされ、三浦義村(彼は畠山重保も謀殺!)が重成の子どもたちや弟を殺害。
重成自身も殺されてしまいました。
鎌倉を揺るがす大事件のきっかけを、2度も作ってしまった彼は、本当に不運としか言いようがありません。
大河ドラマではもうすぐ頼朝の死が描かれそうですが、稲毛重成はどんな形で絡んでくるのでしょうか。楽しみです。
コメントを残す