源頼朝の墓のそばには北条義時の墓も!
2021年3月初旬、鎌倉を訪れました。今回の旅の目的は、『鎌倉殿の13人』に登場する北条氏や鎌倉幕府に関係する場所に行ってみること。
大倉幕府跡やその北にある源頼朝の墓参りをしたのですが
少し気になることがありました。
源頼朝の墓だけがあるのかと思ったら、北条義時の墓もあるのかな?
源頼朝の墓よりももっと知られていないような(あくまでも個人の感想です!)北条義時の墓について、少し調べてみました。
義時の墓「新法華堂」 ARでも再現!
まず気になったのが、「法華堂」という建物。
源頼朝も、鎌倉で死去した後は、法華堂に葬られました。
その建物が廃絶した後、あの石塔になったのです(写真上)。
その頼朝の墓である法華堂の近くに、62歳で亡くなった北条義時の墓として「新法華堂」が建てられたそうです。
鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』によると、頼朝の法華堂の東の山上に建てたのだとか。
源頼朝の法華堂に隣接して、墓(新法華堂)を建ててもらえるなんて。承久の乱を勝ち抜いて、幕府の最重要人物となった北条義時らしい墓です。
彼よりも長生きした、姉の北条政子の願いがあるのかも知れませんね。
そんな新法華堂も鎌倉時代の終わりには、もう、建物は廃絶してしまったそうです。
2005年、ここの土中から遺構が発見されましたが、遺構を保護するため埋戻し、現在は草地になっているのです。
とても今年の大河ドラマ主人公の墓があった場所とは思えませんね。
でも大河ドラマ効果か、藤沢市の湘南工科大学がARで法華堂を再現してくれたようです。詳しくはこちらをご覧ください。
伊豆の国にもある北条義時の墓
実は北条義時の墓は、伊豆の国市にもあるのです。
富士川の戦いの後、彼が頼朝から江間の土地(伊豆の北条館の川向い)を与えられ、かなり長く「江間小四郎義時」(北条氏の分家扱い)と名乗っていた時期がありました。
その彼の所領である江間に、北條寺という寺院を義時は創建。
境内には、北条義時夫妻の墓もありました。
鎌倉の新法華堂は、義時の死後すぐに建てられたと思われますが、北條寺の墓は、義時の3番目の妻・伊賀局(義時の死後、政子によって陰謀の疑いでこの地に幽閉される)の死後、彼の長男で第3代執権となった北条泰時によって建てられたもの。
個人的には、陰謀と流血渦巻く鎌倉のお墓(新法華堂)より、若い頃の思い出があって伊賀局も隣に眠る平和な伊豆の北條寺のお墓のほうが、義時が安らかに眠れそうな気がしました。
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