修善寺温泉発祥の地 独鈷の湯
今から2年前の11月下旬、横浜発のHISバスツアーで沼津や修善寺温泉を訪れました。
修善寺温泉での自由散策時間は、16:00~16:45の僅か45分!
現在NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも話題の源頼家の墓参りを終え、急いで修禅寺へ向かいました。
関西人の私たちは、修禅寺も修善寺温泉も初めて。

修禅寺のある桂川の対岸。面白いデザインの建物があって、非日常的な空間がいいですね!

でも川のそばに、見慣れない施設があります。なんだろう?
後で調べてみると、独鈷の湯(とっこのゆ)という、桂川河畔に湧く修善寺温泉発祥の湯とのこと。
桂川で病気の父親の体を洗う孝行息子に心打たれた弘法大師空海が、仏具の独鈷杵(とっこしょ 古代インドの武器で煩悩を打ち砕く)で川の岩を打ち、温泉を湧き出させた場所でした。

現在、独鈷の湯は見学のみで、入浴も足湯もできないそうです。ちょっと残念ですね。
修禅寺は拝観時間に注意 10月~3月は16:00に終了
独鈷の湯に心奪われてしまいましたが、ここを見学していると修禅寺に行く時間がないと思い、心を鬼にして独鈷の湯見学は断念。

虎渓橋を渡って、修禅寺へ向かいました。

山門への階段に菊の花が植えられていて、とても美しい。

ところが残念なことに、11月は16:00で拝観終了。もちろん御朱印ももらえませんでした。せっかく御朱印帳を持ってきていたのに。

仕方がないので、紅葉の境内で写真を撮りました。このツアーは紅葉鑑賞ツアーなので、御朱印は期待するべきではなかった?
でもバスツアーの行程表に、「修禅寺到着は16:00頃になるので、拝観したり御朱印をいただくのは不可能です」と書いておいてほしかったな。私が見落としただけかな?
源頼家の暗殺現場 筥湯
修善寺温泉で最後に訪れたのは、源頼家が暗殺されたという筥湯(はこゆ)。

現在は、このような建物になっています。

修善寺温泉での散策時間は45分間しかなかったので、入浴できなかったのが残念でした。
筥湯は修善寺川沿いにあった七つの外湯の一つで、頼家が修禅寺に幽閉された翌年の1204(元久元)年7月18日、ここで入浴していた頼家が刺客に襲われ、命を落としたといわれています。
源頼朝の長男として誕生し、次代の鎌倉殿として厳しく鍛えられた源頼家は武芸の達人。入浴中でないと勝ち目はないと、刺客は考えたのでしょうか。
入浴中を襲われた頼家は、それでも必死に抵抗したため、刺客(善児?それとも別の誰か?)は彼の首に紐を巻き付け、男性の急所を押えてようやく刺殺したと、当時の天台座主(天台宗№1僧侶)の慈円は『愚管抄』に記しています。大河ドラマではどのように描かれるのでしょうか(怖)。
源範頼や安達盛長の墓もある修善寺温泉
今回のバスツアーでは訪れることができませんでしたが、修善寺温泉には、『鎌倉殿の13人』にも登場した、2人の重要人物の墓があります。
1人目は、「蒲殿(かばどの)」こと、源範頼(みなもとののりより)。源頼朝の異母弟、源義経や阿野全成(あのぜんじょう 大河ドラマでは実衣=阿波局の夫の僧侶)の異母兄です。
曽我兄弟の仇討事件の後、頼朝や頼家が殺害されたという誤報が鎌倉に届き、それに乗じて自分が鎌倉殿になる野心を抱いたとして(=謀反)、修禅寺に幽閉されました。
その後、梶原景時に襲撃されて自害したとも落ち延びた(子孫は御家人として残っているらしい)ともいわれていますが、修善寺温泉には彼の墓があり、骨壺も発見されました。
1892(明治25)年に修禅寺を訪れた正岡子規は、「此の里に悲しきものの二つあり 範頼の墓と頼家の墓と」と詠んでいます。
もう1人は、流人時代からの頼朝の家人で、頼朝の死後出家した安達藤九郎盛長。
源頼家を支える「鎌倉殿の13人」の1人です(大河ドラマでは会議中寝てるけど)。
彼の墓は他の場所にもあるようですが、修善寺温泉にもあったとは。
鎌倉時代、この地がいかに大切な場所であったかがわかりました。
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