NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も昨日で終了(さみしい)。ドラマでも描かれていた、ゆかりの地をいくつかご紹介します。
後鳥羽上皇と城南宮
昨年9月、京都の城南宮(じょうなんぐう)を訪れました。
京都市伏見区に位置する神社で、電車だと京都市営地下鉄竹田駅が最寄り駅。
徒歩で15分ほどです(バスもあります)。ちなみにさらに南に進むと、徒歩10分ほどで京セラ本社。
城南宮は平安遷都の際に創建された神社で、城南宮の「城」は平安京のこと。この「東鳥居」は、江戸時代後期に兵庫津の廻船問屋・北風氏(司馬遼太郎さんの『菜の花の沖』にも登場)により寄進されたものだそうです。
京都御所の裏鬼門(鬼門と反対の方向=南西)にあたるため、方除(ほうよけ 方位による災厄を避ける)や厄除、交通安全(車のお祓いなど)にご利益があるとして多くの信仰を集めています。平安貴族も、この神社に方違え(かたたがえ)で宿泊したとか。
1221(承久3)年、後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え(やぶさめぞろえ)」を城南宮で催すとして、京都近郊にいる腕に覚えのある多くの兵を集めました。確かにこんなに境内が広ければ、流鏑馬もできそう。鎌倉幕府も怪しまなかったかもしれませんね。
立派な神楽殿。
神輿舎の五色幕。赤い幕に描かれているのは太陽・月・星を著している「三光の紋」。城南宮の神紋ですが、神功皇后の三韓遠征の御旗に描かれていたそうです。
この年(2021年)は承久の乱から800年ということで、迷わず記念の御朱印(500円)を頂きました。
北条義時の義兄(のえの兄)・伊賀光季(みつすえ)は気骨ある武士だった
後鳥羽上皇が招集した武士たちの中には、北面の武士や西面の武士など、昔から院に仕えてきた武士たちの他に、任務で京都やその近郊に滞在中だった有力御家人たちもいました。
『鎌倉殿の13人』にも登場する三浦義村の弟・胤義は検非違使三等官(判官)、大江広元の子・親広(彼はドラマでは登場しませんが、登場したら大江殿は苦悩するだろうな)は京都守護として京都に滞在していましたが、後鳥羽上皇の招きに応じてしまいます。
ところが同じく京都守護だった義時の後妻・伊賀の方(ドラマでは「のえ」)の兄・伊賀光季(みつすえ)は上皇の招きに応じなかったため、三浦胤義らに宿所を襲撃され、よく奮戦したのですが多勢に無勢で光季とその子は敗れて自害。
しかし下人を鎌倉に急行させてこの事態を知らせたため、鎌倉は(ドラマの通り)4日後にこの事態を知ることになります。そのため幕府は警戒を強め、早い段階で義時追討の院宣を携えて鎌倉に来た藤原秀康の従者・押松(おしまつ)を捕えて院宣を回収することに成功しました。
三寅くんの母方の祖父にあたり、上皇挙兵に際して幽閉された大納言・西園寺公経(さいおんじきんつね)も、鎌倉に急使を送っていますが、命を懸けた伊賀光季の活躍は、鎌倉幕府執権の義兄にあたる人物にふさわしいものだったと思います(ドラマではあまり紹介されませんでしたが)。
城南宮の名水
城南宮と言えば、承久の乱ゆかりの地としてだけでなく、曲水の宴でも有名。
今回は時間の都合で割愛しましたが、神苑(7・8月は大人300円、それ以外は大人800円の拝観料必要)には、『源氏物語』に描かれた80種あまりの草木が植栽されています。
名水「菊水若水」は伏見の名水として知られ、江戸時代の初め、霊元法皇が「菊水若水」を飲まれると痛みが治ったという記録もあり、霊験あらたかな水として、お百度を踏んで祈願して水を持ち帰る習慣も伝わっているそうです。
東大寺のお水取りの香水は、若狭の遠敷川からこの「菊水若水」の下を通り、二月堂の若狭井に達するのだとか。
またこの付近は、白河天皇が造営した鳥羽離宮の一部にあたり、離宮の鎮守社として上皇や天皇が行幸したそうです。
鳥羽・伏見の戦いの戦場となったことでも知られています。この戦いもよく大河ドラマで描かれているので、幕末史が好きな方なら訪れてみると面白いのではと思いました。
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