『鎌倉殿の13人』終盤ゆかりの地 承久の乱で敗北した後鳥羽上皇ら3上皇を祀る水無瀬神宮

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NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』もついに終了(さみしい)。ドラマでも描かれていた、ゆかりの地をいくつかご紹介します。

『鎌倉殿の13人』終盤ゆかりの地 承久の乱で挙兵した後鳥羽上皇が兵を集めた城南宮

2022年12月19日

『鎌倉殿の13人』終盤ゆかりの地 承久の乱発端となった亀菊ゆかりの椋橋惣社と神崎遊女塚

2022年12月18日

後鳥羽上皇が愛した水無瀬の地

昨年9月、大阪府三島郡島本町にある水無瀬(みなせ)神宮を訪れました。

大阪府と京都府の境界近く、男山(石清水八幡宮があります)と天王山に挟まれ、桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となる付近に神宮は位置しています。

鎌倉時代初期、水無瀬には後鳥羽上皇の第一皇子として即位する土御門天皇の後見(養女が生母)として権勢をふるった内大臣・源通親(みなもとのみちちか)の別荘がありました。

後鳥羽上皇はここを訪れてとても気に入り、通親から別荘を譲り受け、離宮としました。洪水被害に遭っても何度も修理されるほど上皇が愛した水無瀬離宮でしたが、上皇が承久の乱で敗北して隠岐に配流されると、すっかりさびれてしまいました。

1239年に後鳥羽上皇が隠岐で亡くなると、遺言に基づいてこの地に上皇を祀ったのが水無瀬神宮の始まりです。明治になると、後鳥羽上皇とともに承久の乱で配流された土御門上皇と順徳上皇(ともに後鳥羽上皇の子)も合祀され、現在の姿になりました。

上の写真は、順徳上皇が「都忘れの菊」と呼んでいた佐渡の配流地に咲いていた菊を移植したそうです。水無瀬の里を愛し、菊の花をことのほか好んだ父の後鳥羽上皇を偲んでいたのだとか。3上皇とも配流地で亡くなっています。

承久の乱の節目の年だからでしょうか、なかなか面白そうな講演も企画されていました。「蹴鞠」には「けまり」とふりがながふってありましたが、今年『鎌倉殿』のドラマを見ている方々なら、「しゅうぎく」と読むでしょうね。

京都御所の内侍所を移築した本殿

水無瀬神宮は静かな住宅街の中にありました。

立派な鳥居をくぐると

「水無瀬駒発祥の地」という石碑。能書家だった安土桃山時代の宮司が将棋の駒の銘を書き、高級な駒の書体はこれに倣っているそうです。詳しくはこちらをご覧ください。

神門です。薬医門形式の立派な門で、石川五右衛門の手形が残っているそうですが、例によってこの時は気づきませんでした。珍しいものを見逃してしまいました。

立派な拝殿(上)と本殿。本殿は江戸幕府2代将軍徳川秀忠の孫として即位した女帝・明正(めいしょう)天皇の内侍所(ないしどころ=三種の神器の1つ・神鏡を安置する建物)を京都御所から移築し、改築したものだとか。

この時期は『招福の風』というイベント期間中で、

風鈴が美しい音色を奏でていました。

水無瀬神宮の御朱印(500円)にも風鈴が描かれていました。

名水と文化財で知られる神社 国宝は京都国立博物館に

境内を歩いていると、人だかりのする一角がありました。大阪府で唯一環境庁に「名水百選」に選ばれた「離宮の水」が汲める場所です。

その源は、水無瀬川の伏流水。誰でも1日20リットルまでなら汲んでいってかまわないそうです。私も一口飲んでみたかったのですが、並んでいる人がかなりいるので諦めました。

水無瀬神宮には、後鳥羽上皇の肖像画や手形入りの自筆遺言状(崩御13日前に作成)という2点の国宝があります。

肖像画は、承久の乱で敗北した後鳥羽上皇が、出家して隠岐に配流される前、出家前の上皇としての姿を当時の似絵(にせえ)の名手・藤原信実(のぶざね)に描かせたとされるもの。

どちらもとても貴重なものなのですが、現在は京都国立博物館に寄託されています。

後鳥羽上皇の肖像画は、日本史の資料集(教科書にはないかも)にも掲載される有名なもので、ご存じの方も多いと思いますが、忘れてしまったという方はこちらをご覧くださいね。でも本物に勝るものなし。機会があればぜひ本物を見てみたいですね!

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