青もみじが美しい境内
2024年5月26日(日)、前から気になっていた、兵庫県川西市の多田神社を訪れることができました。
この神社は、清和源氏の祖と言われる源満仲ら5人の源氏の武将を祀っています。元々は源満仲が建立した天台宗の寺院(法華三昧寺 通称多田院)を、明治に神社にしました。
どこか寺院のような東門をくぐると
一面の青もみじで覆われた境内!
以前京都の有名寺院で、青もみじを鑑賞するツアーに参加したことがあるのですが
この神社も、負けず劣らず美しい。
これだけ青もみじが美しいということは、きっと秋の紅葉も美しいことでしょう。
清和源氏の系図と、一族の多さにびっくり
上の写真にも写っている玉垣には、寄進者の名前が刻まれています。どこの神社にもみられる、よくある光景。
でも玉垣の文字をよく見てみると、かなり驚かされました。まず上の玉垣右側の「清和源氏同族会」という文字にびっくり! こういう組織があるんですね。多田神社公式HPの「清和源氏同族会」案内には、「清らかにして和やかな会」とありました。一族内で争っているイメージが強い清和源氏ですが(特に保元・平治の乱~実朝暗殺)、今は仲良く親睦を深めていると知れば、ご先祖様の源満仲も喜ばれることでしょう。
境内にあった清和源氏の系図を見ると、源頼朝の子孫は滅びても、多田、能勢、武田、佐竹、足利、小笠原、細川、畠山、今川、吉良などなど、どこかで聞いたような名字がずらずら並んでいます。同族会を作りたくなるのもわかる気がしました。
あの徳川家康だって、源氏の子孫だと名乗っていたのは知っていたのですが(でもその前は、藤原氏の子孫と名乗っていた)、明智光秀も源氏の子孫だとは知りませんでした。これにもびっくり!
玉垣から知った源氏の争いと、多田院御家人のこと
玉垣を見ていると、他にも気になる文字が。「旧多田院御家人」という肩書の刻まれた玉垣があるのです。
藤原摂関家と結びつくことで莫大な富を得た源(多田)満仲は、他の武士たちに嫉妬され、武装集団に都の自邸を襲撃・放火されてしまいます。そこで彼は、二度国司を勤めた摂津に土着し、多田盆地を所領として開拓し、多くの郎党を養い、武士団を形成しました。その多田盆地の所領は「多田荘」と呼ばれ、代々多田源氏の嫡流に受け継がれますが、8代目の多田行綱の時代に、源頼朝によって多田荘は没収されてしまいました。
多田行綱は一の谷合戦で活躍した(土地勘があり道案内をした)とも言われており、源義経と関係が深かった、或いは「源氏発祥の地」を頼朝が自分の支配下に置きたかったなどの理由から、行綱は追放され、失脚してしまいます。先ほど「一族内で争っているイメージが強い清和源氏」と紹介しましたが、まさにその通り。
一方源氏の郎党であった多田荘の武士団は、鎌倉幕府の御家人となりました。彼らの所領は安堵され、源満仲が葬られた多田院を守護する「多田院御家人」と呼ばれます。彼らの中には、戊辰戦争の際「多田隊」を組織して、新政府軍に加わった人々もいたのだとか。
玉垣には「多田」という名字の人々もいました、各地で活躍されている、多田源氏の子孫なのかもしれませんね。
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