正式入り口は南大門
2024年5月26日(日)、前から気になっていた、兵庫県川西市の多田神社を訪れることができました。
私たちは東門から境内に入ったのですが、
どうやらこの南大門が、正式な入口みたいです。ここが寺院だった江戸時代までは、仁王門だったとか。
今度は猪名川から橋を渡り、この南大門をくぐって境内に入ってみたいです。
でも階段がかなりあるのが、少し不安(写真はパンフレットより)。ちなみに私たちが利用した東門の石段は
南大門に比べたら、可愛いものでした。
笹竜胆と三つ葉葵が目立つ拝殿
大鳥居をくぐって
いよいよ拝殿に参拝です。
祭神の1柱、源頼光(源満仲の嫡男)は酒呑童子の鬼退治で有名ですが、「大江山鬼退治の唄」があったとは。
随身門を通り
拝殿へ向かう途中に、こんなものがありました。1人で訪れても、記念写真が撮影できるという親切なカメラ台が置かれているのは、函館市の「土方歳三最期の地」くらいしか知らなかったので、新鮮でした。
こちらが拝殿です。とても荘厳な雰囲気。
賽銭箱の家紋は、源氏の家紋の「笹竜胆(ささりんどう)」と、徳川の家紋の「三つ葉葵」の複合紋です。徳川家康は征夷大将軍になるため源氏の一族と称し、多田院(明治までは「多田院」という寺院でした)も崇敬。4代将軍の徳川家綱によって拝殿や本堂が再建されているので、拝殿正面の幕にも、笹竜胆と三つ葉葵が交互に描かれていました。
「多田院鳴動」は室町時代のJアラート
多田院には、源(多田)満仲や頼光の廟所があります。
源満仲は死に臨んで「多田院の鳴動で、国内が安全か危険かを知らせよう」と遺言しました。特に室町時代になると(清和源氏である足利将軍家が保護)、廟が音を立てて震えることが室町時代だけで8回あったそう。もちろん多田院は、すぐさま幕府に知らせていました。まるで室町時代のJアラートです。ちなみに「多田院鳴動」は、他所とは異なり不吉な知らせではなくて、吉例とされたのだとか。
その「室町時代のJアラート」の源満仲・頼光の墓所は、本殿(写真中央)の間裏(奥)にあり、禁足地帯になっているそうです。
拝殿や本殿をぐるっと回っていけば、廟所が見つかったかもしれません。
でも私たちは、うっかり廟所の存在が意識から抜けていて(解説板に書いてあったのに)、見逃してしまいました。上の写真はパンフレットからの引用です。なおこの廟所には、足利尊氏以下歴代の足利将軍の分骨も収められているとか。平安時代や鎌倉時代よりも、室町時代によく廟所が鳴動していたのは、子孫が日本の支配者になったため、源満仲も心配したのかもしれませんね。
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