かつてヨーロッパへの玄関口だった敦賀港  「人道の港」と「欧亜国際連絡列車」の面影

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古代から国際貿易港だった敦賀港

2024年7月14日(日)、福井県敦賀市の氣比(けひ)神宮に参拝し、その後徒歩で敦賀港の「敦賀赤レンガ倉庫」に向かった私たち。

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敦賀港は古代から良港として栄え、平安時代前期には、中国東北部地方を中心に建国された渤海(ぼっかい)からの使節を迎える松原客館も置かれていました。

渤海の滅亡後も、大河ドラマ『光る君へ』に登場した宋の商人・朱仁総のように、宋の商人などが敦賀を訪れた記録が度々あります。

江戸時代には日本海航路の港として繁栄し、北前船の入港で賑わっていましたが、明治になると鉄道に国内物資の輸送を奪われ、再び海外貿易港として活路を見出すことになりました。

1902年には、ロシアのウラジオストクとの間に定期航路が開設され、1912年には東京発の国際列車が、シベリア鉄道経由でヨーロッパと連絡することとなったのです。これが「欧亜国際連絡列車」。東京-パリ間をわずか17日間で結びました。それまで1ヶ月もかかる長い船旅だったのですから、これは便利!

この敦賀赤レンガ倉庫は、紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社により、石油貯蔵用の倉庫として1905年に建設されたもの。ウラジオストク定期航路開始から3年後です。

外国人技師の設計による建物で、当時の敦賀港の繁栄を偲ぶことができました。

「人道の港」敦賀港

前回赤レンガ倉庫の駐車場をバスツアーで利用した時には、

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この辺りを歩かなかったために気が付かなかったのですが

赤レンガ倉庫近くの道路に、このようなサインがありました。

1940~41年、リトアニア領事代理だった杉原千畝(ちうね)が発給した「命のビザ」によって、約6,000人ものユダヤ人難民が、シベリア鉄道からウラジオストク経由で敦賀へ上陸。

ユダヤ難民のことは、バスツアーの添乗員さんが説明してくれたので知っていたのですが、敦賀港には1920年代に、ロシア革命の動乱でシベリアで家族を失ったポーランド孤児(ポーランド独立運動に関わり、シベリア流刑となった人たちを親に持つ)763人も上陸していたことは知りませんでした。

今回も行くことができなかったけれど、赤レンガ倉庫から少し離れた場所(金ケ崎緑地)には、「人道の港 敦賀ムゼウム」という施設があり、ポーランド孤児やユダヤ難民、大陸への玄関敦賀港に関する展示などがあるそうです。「ムゼウム」はポーランド語で「資料館」という意味でした。

敦賀鉄道資料館

今回私たちは、敦賀港(雨なのでこんな感じです)の中心っぽい場所にあって

敦賀赤レンガ倉庫ではできなかった雨宿りができそうな(とにかく雨がひどかったのです)

敦賀鉄道資料館を訪れました。とても素敵な建物だなと思っていたら、実はこれが「欧亜国際連絡列車」の発着駅だった金ケ崎駅(後の敦賀港)駅舎を再現したものだったのです。内部見学は無料だったので、早速、雨宿りを兼ねて入ってみました。

かわいい女の子がお出迎え!と思ったら、これがこの資料館のキャラクター。その名も「欧亜国際連絡列車」! 直往邁進!パワー系の女の子ですが、なぜか鞄には越前ガニというのがご愛敬。

放映されていた敦賀と鉄道についてのDVDがとても興味深く、気が付けば次の目的地に行く時間! 欧亜国際連絡列車関係の展示を見る時間がなかったのが、とても残念。

でもそのかわり、偶然資料館の前で、「命のビザ」を発給した杉原千畝夫人の幸子さんが、2001年に敦賀を来訪した記念に、日本とリトアニアの有効と交流を願って植樹された、ソメイヨシノと樫の木(リトアニアの代表的な木)を見ることができたのはラッキーでした。

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