土佐の小京都中村巡り5 幸徳秋水ゆかりの地巡り

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偶然見つけた「幸徳秋水の墓」への入口

2024年12月30日(月)今回の旅行最終日は、四万十市の中村を観光しました。

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次の目的地は、中村城跡です。

一條神社から歩いていると

偶然、こんな看板を見つけました。

1911(明治44)年の大逆事件で処刑された、明治の社会主義活動家・幸徳秋水のお墓が、中村にあるようです。

好奇心に耐え切れず、中村城跡は後回しにして、お墓に行ってみることにしました。

道標や案内看板があちこちにあり、わかりやすいですね。正福寺というお寺の墓地ですが、

検察庁や裁判所の裏手に位置しているのです。ちょっと複雑な気持ちになりました。

幸徳秋水と坂本清馬の墓

墓地の入口から参道を歩いて行くと、まず見えてきたのが、坂本清馬(せいま)の墓。彼は室戸市出身で、「平民新聞」を読んで社会主義に関心を持ち、幸徳秋水の書生になりました。

大逆事件で幸徳秋水とともに逮捕され、死刑判決を受けるものの翌日無期懲役に減刑され、1934(昭和9)年に仮釈放。1947(昭和22)年に復権しました。彼は一貫して無実を主張し続けましたが、再審請求は棄却されました。

そして幸徳秋水の墓。後で知ったのですが、離婚した元妻・師岡千代子の墓と隣接しているそうです。

ポストの中には、パンフレットなどがありました。

幸徳秋水についての説明文。中村の豪商出身で神童と呼ばれ、自由民権運動に目覚めてジャーナリストになり、世界的視野で自由・平等・博愛の精神を身に着けました。2000(平成12)年、当時の中村市議会は彼の名誉を回復。命日にはこの地で墓前祭が行われているそう。

卒塔婆がたくさんあり、毎年墓前祭が行われていた様子がよくわかりました。

お墓以外にもあるゆかりの地

墓地には、お墓以外のゆかりの地についての案内板も。

全く予想外に出会った幸徳秋水。これも何かのご縁だと思い、可能な限り、ゆかりの地を巡ることにしました。

まずは一番近い、正福寺境内にある「非戦の碑」。確かに戦争は良くないです。今のご時世、とりわけそう思います。でもどんな手段を使っても、とりあえず停戦させればいいという政策も、どうなのかな。

次に訪れたのは、中村城跡にも近い、「絶筆の碑」。四万十市郷土博物館のすぐそばです。

死刑宣告された1911年1月18日(処刑はその6日後)、看守の依頼で書き与えた漢詩です。享年39歳でした。

最後に訪れたのが、幸徳秋水の生家跡。場所はグーグルマップに載っておらず、郷土資料館で貰ったパンフレットの地図を頼りにたどり着きました。住所は、四万十市中村京町2丁目33周辺。

薬種業と酒造業を営む豪商・俵屋の末っ子(4人兄弟)として誕生しました。幸徳家は元々「幸徳井(かでい)」という姓で、陰陽道に通じた家だったとか。石碑の向こうに見えるこの家は、幸徳家と関係あるのかな? とても気になったけれど、近寄って表札を確認する勇気はありませんでした。

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