気ままに芦屋散歩1  阿保親王塚古墳の不思議 被葬者は在原業平の父親?

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在原業平ゆかりの地・芦屋へ

皆さんは、兵庫県芦屋市に、どんなイメージをお持ちですか?

六麓荘(ろくろくそう)に代表される関西有数の高級住宅地やお金持ちの住人、そして六甲山など風光明媚な場所を連想される方もいるでしょう。

実は芦屋は、『伊勢物語』の主人公とも伝えられる和歌の名手(平安初期の貴族)在原業平(ありわらのなりひら)ゆかりの地でもあるのです。

芦屋に住んでいる知人から、今年が在原業平生誕1,200年目(気が付いた人すごい!)だと教えてもらったのがきっかけで、そういえば業平って恋愛エピソードに事欠かず、元祖「光る君」みたいなイメージもあるなと興味もあり、今まであまり知らなかった芦屋の名所めぐりも兼ねて、業平ゆかりの地に行ってみることにしました。

阿保親王塚古墳

最初に訪れたのは、在原業平の父である阿保(あぼ)親王の墓と伝わる阿保親王塚(しんのうづか)古墳です。

私たちはJR芦屋駅から歩きました。

「親王塚橋(しんのうづかはし)」という交差点の表示が見えると、目的地はもうすぐ。

親王塚橋の下には、宮川が流れています。

昔、この川の下流に、金刀比羅神社があったため、この名になったとか。残念ながら、親王(宮)とは関係なさそうですね。

この橋からさらに東に進むと、宮内庁の管轄を示す看板があり

とても立派な拝所が、その姿を見せてくれました。やはり皇族となると、違いますね。

阿保親王について

阿保親王は、794年に平安京に遷都した桓武天皇の死後、跡を継いだ平城(へいぜい)天皇の第一皇子でした。母方の身分があまり高くなかったため、皇太子にはなれませんでした。

平城天皇は即位当初は意欲的に政治改革などに取り組みましたが、病気がちのため、即位後わずか3年で天皇の座を弟の嵯峨天皇に譲り、平城京に移ります。しかし、譲位に反対する側近の藤原仲成・薬子兄妹の要請もあり、政権の奪還を図ろうとして挙兵するも失敗(平城太政天皇の変or薬子の変)。仲成は射殺され、薬子も服毒自殺しますが、上皇は剃髪して仏門に入ったため、処罰はされませんでした。

平城太政天皇の変後、阿保親王は大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷されましたが、その後許され、官職を歴任しています。

古墳の年代がずれている!

さて、その阿保親王の墓が芦屋にあるとか、親王が芦屋に住んでいたという記録は、実は残っていないのです。

ではなぜここが「阿保親王塚古墳」になったかというと、江戸時代に阿保親王の子孫を称する長州藩主の毛利氏が、ここを阿保親王の墓と認定して大規模な補修を行い、その際、銅鏡も発見されたのだとか。

現在の考古学調査では、古墳時代前期の4世紀に築造されたものと考えられています。阿保親王は9世紀(842年)に亡くなっているので、完全に時代がずれています。4世紀に造られた古墳を、阿保親王の墓として再利用する、というのは、あり得るのでしょうか??

長州藩主毛利氏と言えば、あの『鎌倉殿の13人』でも大活躍した大江広元の子孫を称し、江戸時代に大江広元の墓を整備しているのですが

鎌倉で北条氏や鎌倉幕府の足跡+&を訪ねる旅9 大江広元・毛利季光・島津忠久の墓

2022年6月13日

なぜまたご先祖に、大江広元とは全く系譜の違う、阿保親王が加わったのか。今のところ謎です。

個人的には「阿保親王塚」ではない疑惑がかなり浮上しているのですが、「親王塚」という地名が浸透しているし、宮内庁の管轄なので石室の発掘調査などは難しそう。一体被葬者は誰なのか、これも永遠に謎のままになりそうです。

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