ランタン祭りでなくても華やかなホイアンの夜
2025年8月25日(月)、16:00発の乗合リムジン(途中のダナンで普通車に乗り換え)でホイアンに到着した私たちは
「ホワイトローズレストラン」でホイアン名物のホワイトローズや揚げワンタンを食べた後
賑やかそうな道を通ってホテルに帰ることにしました。

TATOO(タトゥー=入れ墨)の店の看板が、とても華やか。日本と文化が違うのですね。

この日のホイアンは、ランタン祭り(満月の日)ではない普通の夜だったのですが、それでも場所によってはランタンが美しく、

店頭がとても華やかで、明るい場所もありました。
朱印船が語る、日本とベトナムの関係
更に歩くと、とても興味深いものがありました。

日本の朱印船(レプリカ)です。
ホイアンは海に面してはいないけれど、トゥボン川が南シナ海に流れ出る三角州に形成された町で、現在は河口から7km遡った場所に位置しています。15世紀から19世紀にかけて、東南アジア屈指の貿易港として栄えました。16世紀頃から、日本人もポルトガル人や中国人と共に、東南アジアに進出していましたが、ホイアンにも生糸や絹織物、香木、砂糖などを求めて、多くの日本人が来航。当時の中国(明)が海禁政策(海外貿易や漁業などの規制)を行っていたので、明の生糸や絹織物、陶磁器を求める日本商人たちは、ホイアンで中国人商人と取引していたそうです。

1601年にフエを都としていた広南国は、徳川家康に書簡を送って正式な国交を求めました。海外貿易に熱心だった家康はこれを了承し、海外渡航許可証である朱印状を持った船(朱印船)による貿易が行われました。ホイアンには大規模な日本人街も形成されていました。

この後朱印船のレプリカは、2017(平成29)年に、長崎県及び長崎市等を中心に構成された「御朱印船プロジェクト実行委員会」により寄贈されたもの。ベトナムでのAPEC首脳会議に合わせて実施されたそうです。長崎はかつて朱印船貿易の拠点だった関係で、長崎県とベトナムとの交流が盛んなのですね。
荒木宗太郎とワカク姫も乗った?朱印船
私たちの宿・ホテルロイヤルホイアンギャラリーは、日本の朱印船商人(肥後国の武士出身)荒木宗太郎と、ベトナム(広南国)の国王・阮(グエン)福源の王女(養女?)ワカク姫の結婚をモティーフにしているのですが、
江戸幕府3代将軍徳川家光が、鎖国政策を徐々に厳しくしていた1632年、荒木宗太郎は帰国を決意し、ワカク姫と長崎に移住(その翌年、海外に5年以上居留する日本人の帰国は禁止)。ワカク姫は故郷に帰ることはできなかったけれど、長崎の人々からは「アニオーさん」(姫が宗太郎を呼ぶ「アイン・オーイ=愛するあなた」を長崎の人々が耳にして姫の愛称に)と呼ばれて親しまれました。彼らもこんな朱印船で、長崎に渡航したのかな。

私たちの部屋(「宗太郎」タイプ)の照明も、日本風のもあれば

ベトナム風の照明もあって、宗太郎とワカク姫のような気がしました。
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