井伊直虎は男性?女性? その7 井伊直虎の最期とは?

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前回は、昨年井伊美術館が発表した「直虎男性説」の根拠となった『守安公書記 雑秘説写記』とはどういうものか、

また「直虎男性説」以外にも、衝撃の事実が色々あったことを紹介しました。

新たな史料とは

ところが先週の4月10日、井伊美術館は「直虎男性説を補強する新たな史料が発見された」と発表しました。

今度の史料は、井伊美術館の館長・井伊達夫さんが昭和40年代に入手。

一旦手放したものの、20年ほど前に美術商から購入したものだそうです。

この美術館は、史料を購入してもすぐに内容を確認しないのでしょうか。

私設美術館だから、あれこれ注文を付ける方が無理なのかも知れませんが。

その新たな史料が『河手家系譜』

河(川)手家は彦根藩重臣の家柄でした。

川手主水良則(かわてもんどよしのり)は、三河国川手城(愛知県豊田市)主の子として生まれ、武田家滅亡後、徳川家に仕えた人物。

1582年(天正10年)に徳川家康の命令で井伊直政の異母姉・高瀬姫を娶り、直政に仕えました。

ちなみにこの高瀬姫というのは、井伊直親がまだ亀之丞時代、井伊谷から脱出して潜伏していた伊那谷の市田郷(現長野県下伊那郡高森町)で、現地の塩津氏の娘に産ませた娘です。

大河ドラマでは高橋ひかるさんが演じるそうですが、いつ頃登場してくるのかな?

『守安公書記』を著した木俣守安(きまたもりやす)の家も、彦根藩筆頭家老の家柄でした。

一方この川手家は井伊家の一門筆頭となり、木俣家よりも席次や石高は上でした。

そんな川手家でしたが、本家は江戸時代前期に断絶し、1853年(嘉永6年)に再興されました。

『河手家系譜』は、分家筋の子孫良旭が1830年(文政13年)までに記し、その子の良寛が、他の文書を引用して追記したようです。

川手家を再興したのは、あの大老・井伊直弼

藩祖直政の異母姉・高瀬姫が嫁いだ名家が断絶したのを惜しみ、自分の甥に川手家を再興させました。

また直弼は井伊家の歴史に関心が深く、実際に井伊谷を訪れて、井伊家初代の井伊共保(ともやす)誕生の井戸で和歌を詠んだり(写真上、直弼の歌碑)、亀之丞の父・井伊直満兄弟の墓とされる「井殿の塚」(写真下)を整備したことでも知られています。

「直虎」の最期

井伊博物館によると、直虎に関する記述は全て追記。

河手家の人物を紹介する文章の行間に、墨字で「井ノ直虎は幼かったので河手が補佐した」と追記され、「井ノ直虎」の隣に「次郎也(なり)」と朱色の文字が書かれていたようです。

また「この次郎は御家(井伊家)の者ではない。今川のものなり」という別の記述もあったようです。

「井ノ直虎」の次の行には、墨字で「永禄11年の駿河崩れの時、直虎が花沢(焼津市付近)に逃げる途中で討ち死にした」という衝撃の書き込みもありました。

永禄11年というと、あの「直虎」唯一の署名と花押(かおう)が記された蜂前(はちさき)神社の日付が、永禄11年(1568年)11月9日。

この日、徳政令公布の書状に父親と共に署名した次郎直虎(男性)は、その後今川軍に参加して徳川家康軍と戦い、12月に戦死したのでしょうか。

先述の書き込みに「幼かったので」とあるので、若くして討ち死にしたのでしょう。

もしこれが真実なら、従来の直虎没年より、14年も早いそうです。

『井伊家伝記』など従来の直虎説では、徳政令公布の書状に署名した次郎直虎(女性)は城主の座を剥奪され、井伊谷は今川領となってしまいます。

今川の代官として井伊谷を支配したのは、井伊家家老の小野政次。

ところが井伊谷城に乗り込んで1ヶ月も経たないうちに徳川軍による今川攻撃が始まり、小野政次は井伊谷の軍勢を率いて出陣するも、敗北して井伊谷に逃げ帰ったとあります。

城主を罷免された次郎直虎(女性)は、井伊家の菩提寺・龍潭寺(りょうたんじ)に身を寄せたとも言われますが、詳しいことはよく解っていません。

彼女は虎松が家康に仕官し、出世していくのを見届け、1582年(天正10年)に井伊谷で亡くなったとされています。

写真は龍潭寺にある直虎の墓(右から2つめ)です。一番右が直虎の母、中央が直親、その左が直親夫人、一番左が直政です。

今回の井伊博物館の発表について、直虎女性説を主張する小和田哲男・静岡大学名誉教授(戦国史)は、

「幕末の二次史料ながら、河手家系譜の『この次郎は御家にあらず。今川のものなり』と、『井ノ直虎』の横に朱字で『次郎也』とある部分は注目される。

史料紹介なり論文の形で公になった時点で検討したい。」

とコメントしているそうです。

終わりに

以前、『八重の桜』が放映されると、それまで無名だった川崎尚之助(山本八重の最初の夫)が注目され、新たな史料も発見されたことがありました。

今回の直虎の性別を巡る問題でも、多くの研究者が議論し、新旧の史料を検討すれば、真実の直虎の姿が徐々に明らかになるかも知れない。

そう心から願いながら、このシリーズを終えたいと思います。
長い間おつきあい頂き、どうもありがとうございました。

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