関西に住んでいるため、桜の季節以外にも、吉野山を訪れる機会は何回かありました。
歴史の舞台にも度々登場し、修験道(しゅげんどう)の聖地でもある吉野山には、多くの神社や寺院、史跡があります。
今回は私が訪れた中から、比較的アクセスがしやすく、吉野らしさを満喫できる場所をご紹介しましょう。
金峯山寺(きんぷせんじ)
日本古来の神々への信仰と仏教の信仰、そして山岳修行を組み合わせた日本独自の宗教が「修験道」です。
金峯山寺は修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が開いた寺院とされ、本尊は役行者が一千日の厳しい山岳修行の結果感得した(祈りによって出現された)とされる金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)。
一見密教の仏のような、すさまじい憤怒の形相をしていますが、この金剛蔵王権現は神とも仏ともつかない、インドや中国に起源を持たない日本独自のものだそうです。
本尊は「秘仏」とされていますが、時々特別開帳があります。
今年の春にも特別開帳され、多くの人で賑わっていましたが、2010年(平成22年)9月の特別開帳の時に拝観したので今回はパス。
本尊の金剛蔵王権現は3体の巨大な憤怒像で表現され、コバルトブルーの肌がとても印象的でした。
金峯山寺の領域はとても広く、ロープウェイの吉野山駅や観光バス駐車場に近い黒門が総門(一番外側の門)になります。
「どこの神社の鳥居?」と思っている人も多そうな「銅の鳥居(かねのとりい)」も、金峯山寺の門で、俗界と聖なる空間を区切る第一の門=発心門(ほっしんもん)。
吉水(よしみず)神社
明治維新までは、吉水院と呼ばれる金峯山寺の僧房(僧侶が生活する建物)でしたが、明治政府の神仏分離令により、吉水神社となりました。
源義経、後醍醐天皇、そして豊臣秀吉という歴史上の大物に縁のある神社として知られています。
まず源義経ですが、兄の源頼朝に追われた時、静御前や弁慶らと共に吉水院に潜伏しました。
義経らは山伏に姿を変えて大峯山を目指しますが、大峯山は女人禁制のため、静御前は泣く泣く義経と別れました。
この悲恋物語を元に、歌舞伎や浄瑠璃で有名な『義経千本桜』は創作されました。
義経や弁慶にちなむ文化財も、たくさん展示されていました(2004年撮影)。
また後醍醐天皇は、この吉水院を行宮(あんぐう=仮の御所)としました。
この神社の祭神は後醍醐天皇で、後醍醐天皇の玉座も拝観できます(2004年撮影)。
でもここの人気の秘密は、1594年(文禄3年)に豊臣秀吉が花見をしたという立地条件の良さでしょう。
境内の展望台には「一目千本」の立て札が掲げられ、中千本(なかせんぼん)エリアと上千本(かみせんぼん)エリアの桜を一望することが出来ます。
この2ヵ所は、ほとんどの観光客が訪れる場所だと思います。
ここだけでも十分ですが、私が印象深かった場所をもう1つ。
如意綸寺(にょいりんじ)
金峯山寺蔵王堂や吉水神社から、谷を1つ隔てた塔尾山(とうのおさん)にあります。
この寺の裏山に後醍醐天皇陵があるというので行ってみたのですが、近くにあるように見えてなかなかたどり着けず、山道を登って後醍醐天皇陵に着いたときには、かなり汗だくになりました。
足利尊氏と対立し、やむなく吉野山へ脱出した後醍醐天皇は、京都へ帰るという悲願もむなしく、吉野山で亡くなりました(享年52歳)。
この後醍醐天皇陵は、日本の天皇陵の中では唯一北向きに造られているそうです。
吉野山から北の京都に戻りたいという、後醍醐天皇の執念を感じさせます。
1346年(正平2年)、楠木正成の子・正行(まさつら)は出陣に際して一族郎党と共に後醍醐天皇陵に詣で、辞世の歌を詠んだとされています。
2010年9月に訪れた時は観光客の姿もまばらで、後醍醐天皇や楠木正行の悲しみが伝わってくるようでした。
この春には時間がなくて訪れませんでしたが、桜の頃には、後醍醐天皇陵も多くの人が訪れるのでしょうか。
番外編:吉野神宮
吉野山には後醍醐天皇に因む史跡がたくさんありますが、この神社は後醍醐天皇を祭神として、明治時代に建てられたものです。
2004年(平成16年)に近鉄吉野神宮駅から歩きましたが、坂道をかなり歩き(約1㎞)吉野山の中心に行くまでに、早くも疲れてしまいました。
近代に造られた神社らしく、広い敷地と立派な建物、そして咲き誇る桜が印象的でした。
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