2004年(平成16年)3月に、烏頭山(オドゥサン)統一展望台を刊行した後、板門店を訪れました。
教科書にも載っている有名な場所ですが、朝鮮半島を分断する南北軍事境界線上にある場所なので、個人で訪れることはできません。
服装や持ち物など、色々な注意や禁止事項があるのも、事前にガイドブックなどで知っていました。
死んでも文句は言いません
板門店は、先に訪れた烏頭山(オドゥサン)統一展望台より遥かに規制が厳しい場所。
ここは韓国軍と北朝鮮軍との「共同警備区域(JSA)」なのです。
強烈に印象に残っているのが、最後の説明を受けた後に配布された書類でした。
「どんな事故があっても受け入れます。
死んでも文句は言いません。」
こんな書類にサインさせられました。
そんな説明を受けた国連軍(実質はアメリカ軍と韓国軍)軍事基地のキャンプ・ボニファスで昼食を取り、写真撮影時間もありました。
でも撮影できない場所が多く、カメラの角度も決められていたりします。
キャンプのフェンスの向こうは、一面の地雷畑だそうです(怖)。
展望台から見た光景
板門店の展望台から、北朝鮮側の建物(板門閣)を見てびっくり。
とても立派な建物で、いかにも共産主義国という感じ。
展望台からは、非武装地帯内・北朝鮮側宣伝村にある、世界一高い国旗掲揚塔も見えました。
訪問した2004年当時は世界一だったのですが、ウィキペディアによると、今は世界第三位だそうです。
宣伝村とは、韓国内から見える北朝鮮の村で、機井洞(キジョンドン)というのが本来の地名。
韓国側の説明によると、
共産主義体制の北朝鮮での暮らしがいかに素晴らしいかを、韓国の人達に宣伝している村
だそうです。
立派な高層建築も並んでいましたが、実は誰も住んでいない、無人の村なのだとか。
夜の照明も、一斉に点灯し、一斉に消えるのだそうです。
これはいかにも不自然です。
もし「宣伝のために無人の楽園を作った」というのが真実なら、何と無駄な、馬鹿なエネルギーを使っているのかと思いました。
「北緯38度線」を見た
展望台からは、めだつ水色のバラックも見えました。
軍事停戦委員会の会議場がある建物で、国連軍兵士が警備しています。
その建物のそばに行ってみると、白いコンクリートブロックがありました。
これが南北朝鮮を分断する、北緯38度線です。
今まで教科書ではさんざん出てきた言葉でしたが、いざ具体的な形で目にすると、とても複雑な気分になりました。
板門店ツアーのハイライトは、軍事停戦委員会の会議場内部の見学でした。
国旗とマイクが北緯38度線を示すため、絶対手を触れてはいけないと、厳しい注意がありました。
もし違反したら、それこそ生命がなくなるのかな(汗)。
韓国軍のエリート
会議場を警備する兵士は、撮影することができました。
サングラスをかけているのは、相手に自分の表情や視線を読み取られないためなのだとか。
そういえば、1945年(昭和20年)8月30日、神奈川県の厚木飛行場に降り立った連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーも、サングラスをしていました。
単なる「ちょいワル風」を装っているのではなく、ちゃんとした理由があったのです。
また兵士のポーズは、テコンドーの構えだとガイドさんから聞きました。
ここに配属されている韓国軍兵士には、北朝鮮軍や国連軍の兵士に比べて見劣りしないように、175㎝以上の身長や英語力が求められているそうです。
韓国軍の中でもかなりのエリートだと言うことでした。
この兵士と並んで写真を撮っている人もいたのですが、私はあまり近寄れませんでした。
恥ずかしかったこともあるのですが、ものすごい緊張感がびりびり伝わってくるような気がして、すぐ隣に行くのがはばかられたのです。
どれだけ観光客が近くに寄ってきても、兵士は無表情のままでした。
「帰らざる橋」
最後に案内された展望台から見えたのが、映画『JSA』の舞台にもなった「帰らざる橋」。
1953年(昭和28年)の朝鮮戦争停戦後の捕虜交換がこの橋の上で行われ、捕虜達がこの橋の上で南北どちらかの方向を選択すると、二度と後戻りすることができないことから、「帰らざる橋」と呼ばれました。
1976年(昭和51年)に、この橋のそばにあったポプラの木の剪定を巡って北朝鮮軍の兵士がアメリカ軍兵士2人を殺害し、韓国軍兵士数名が負傷する事件が発生。
その後、非武装地帯内の共同警備区域の警備を行う国連軍の基地は、殺害されたアメリカ軍指揮官・ボニファス大尉の名をとって改名されました。
「キャンプ・ボニファス」という名前の由来です。
もしかすると、第二次朝鮮戦争が勃発するかも知れないと危惧された事件でした。
朝鮮戦争はまだ終わっていません。
休戦しているだけなのです。
翌日も非武装中立地帯を訪れました。その様子はこちらをご覧ください。
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