岡山烽火場から次に徒歩で目指したのは、関ケ原町歴史民俗資料館。
その途中に、陣馬野という場所がありました。
陣場野公園 徳川家康最後の陣地
ここは、徳川家康が最後に陣を構えた場所だったのです。
現在は「陣場野公園」として整備されており、立派なモニュメントもありました。
最初徳川家康は、桃配山に布陣していましたが、開戦後まもなく、桃配山を下りて最前線近くのこの場所へ移動しました。
戦況は一進一退だったし、鉄砲の硝煙がもうもうと立ち込めた戦場の状況がよく見えなくて、いてもたってもいられなかったのかもしれません。
こういう時の家康って、イライラして爪を噛んでいそうです。
内応を約束しながらも、松尾山の陣からなかなか動こうとしない小早川秀秋に業を煮やし、松尾山への威嚇射撃を命じたのも、ここからでした。
この時の家康の判断が、関ケ原の勝敗を決したと言えそうです。
合戦に勝利した家康は、ここで首実検を行いました。
関ケ原ウォーランドでは、この場面を再現していました。
戦場での家康は、移動用の椅子である床几(しょうぎ)に腰かけていました。
のちに関ケ原を支配した竹中家(竹中半兵衛の子孫)は、幕府から古戦場の整備を命じられ、家康が床几で腰かけていた陣地の周囲を土塁で囲み、中央に土壇が築かれました。
竹矢来で囲まれて盛り上がっているこの場所は、現在「床几場」(しょうぎば)と呼ばれています。
ここに座っていた家康は、勝利が決まったと分かったとき、どんな表情をしていたのでしょう?
こんな表情をしていたら、面白いですね。
「うんちく仙人の歴史ドラマ解説」 『真田丸』第10話「妙手」より、写真を引用させていただきました。
大河ドラマの徳川家康を何作か見ていますが、ここまで大喜びして「よっしゃー!」と叫びガッツポーズをしていたのは、『真田丸』の徳川家康(内野聖陽さん)だけだったと思います。
『真田丸』では主人公の適役だったし、関西人にとってはいろいろ思うところのある家康ですが、この作品の家康は、とても面白みがあって、人間臭くて、好感が持てました。
今年の大河ドラマ『おんな城主直虎』の徳川家康(阿部サダヲさん)は、どんな感じになるのかな。
御霊(ごりょう)神社と貴船神社
もう1つ目にとまったのが、公園内にある、割と新しそうな2社の神社。
同じような、白い鳥居が2つ並んで建っているのが、とても印象的だったのです。
片方は御霊神社、もう片方は、貴船神社でした。
案内板の由緒書によると、御霊神社は合戦で亡くなった将兵の魂を鎮魂するため、関ヶ原合戦から380年後の1980年(昭和55年)に建立されました。
関ヶ原ウォーランド近くの宝蔵寺の創建が1964年(昭和39年)だから、この神社はそれに比べれば新しいです。
神社建立の翌年には、TBS創立30周年記念番組として、お正月に、司馬遼太郎さんの『関ヶ原』を3夜連続で放映するということもありました(撮影は1980年だと思われます)。
私が大谷刑部さんを好きになるきっかけを作ったドラマです。
さて、もう片方の貴船神社ですが、これは関ヶ原の戦いとは全く関係ありません。
元々陣場野地区は、水不足でわずかな日照りでも井戸水が枯れてしまう土地でした。
1919年(大正8年)、大日本紡績(現ユニチカ)の工場誘致を行ったため、地区人口は急増し、ますます水不足が深刻になったようです。
困った住民は、1926年(大正15年)に大規模なくみ上げ施設を計画し、工事を実施。
工事は完成し、村人たちは水神として有名な京都の貴船神社の祭神・高竈神(たかおかみのかみ)をもらい受け、土地の鎮守としたということでした。
関ケ原の、意外な近代史が伝わってきます。
関ケ原町歴史民俗資料館
陣場野公園や神社の近くに、関ケ原町歴史民俗資料館がありました。
駐車場の辺りが、すごいことになっていました。
戦国ゲームの力は侮りがたい。
入り口はこちらです。
内部は残念ながら撮影できませんでしたが、関ケ原合戦図屏風や戦場のジオラマ(時間ごとの推移もよくわかる)、参戦した各武将の紹介、当時使われていた武器・武具など、関ケ原ファンでなくても楽しめる展示でした。
「民俗」の名の通り、江戸時代や明治以降の民具などもありました。
私達が訪れた時は(2013年11月)、来年の大河ドラマが『軍師官兵衛』であるということで、官兵衛の先輩であり、黒田長政の命の恩人でもある、関ケ原の領主・竹中半兵衛さんをかなりPRしていました。
黒田官兵衛と竹中半兵衛の、親子二代にわたる絆については、こちらをご覧ください。
ミュージアムショップも、とても充実していて、戦国ファン必見でした。
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