関ヶ原探訪記1 岡山狼煙場と東首塚 竹中家と黒田家の絆を見た

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2013年11月に、関ヶ原を訪れたことがあります。

前回紹介した、『歴史発見 城下町へ行こう!』の2時間スペシャル「徳川家康 天下獲りの秘密~関ヶ原の合戦 その舞台をゆく~」という番組を見たのがきっかけでした。

私達は車がないため、JR東海道線の関ケ原駅が、旅の起点です。

JR関ヶ原駅

ホームから降りると、もう合戦ムードが満載でした。

この関ヶ原駅から、徒歩で散策スタートです。

駅前には、ピエール瀧さんが紹介していた、関ヶ原の案内地図板がありました。

嫌いな武将の陣地に、ガムが貼り付けてあるかどうかまでは確認できませんでしたが。

駅前はとても静かで、私達は午前10時頃に到着したのですが、当時は土産物屋も少なく、この時間にはまだ営業していませんでした(この写真は、15時30分、散策を終えて帰るときに撮影しました)。

せっかくなので、ここで関ケ原の戦いに参戦した戦国武将の家紋をあしらったビスケットを購入した記憶が‥‥。

ても、先日のバスツアーの時、関ケ原ウォーランド近くの花伊吹で購入したお土産よりも、素朴というか、正直、洗練されていませんでした。

関ケ原グルメと宝蔵寺 読売旅行バスツアーに参加してみました(その1)

2017年5月29日

ちなみに、駅前の観光案内所は2015年にリニューアルされ、「いざ関ヶ原」という名称になっているようでした。

大谷吉継の甲冑展示もあり(今でもやってるかな?)、土産物販売では一部電子マネーやクレジットカードにも対応しているとか。

東海道線なのに1時間に2本しか列車が来ず(しかも普通と快速しかないローカル線状態)、公共交通機関で訪れるのにはやや不便を感じましたが、これからどんどん便利になっていくといいですね。

 岡山烽火場(のろしば) 竹中重門(しげかど)・黒田長政の陣跡

まず最初に訪れたのが、岡山烽火場。

駅からも近く、道標も完備していて、迷わずにたどり着けたのがありがたかったです。

豊臣秀吉を支えた2人の軍師である竹中半兵衛と黒田官兵衛の子供達が、共に陣を敷いた場所で、その名の通り、小高い岡で烽火をあげました。

頂上にある黒田家ののぼりです。

関ヶ原には先に西軍が到着し、見晴らしのいい場所に布陣していたため、東軍ではこの場所と、家康本陣の桃配(ももくばり)山しか、小高い場所が残っていなかったようです。

見晴らしは抜群でした。

東軍最右翼のこの場所なら、戦場の動きもよく分かります。

午前8時頃、ここから戦闘開始を告げる烽火が上がりました。

金刀比羅神社と生駒一正

烽火場の近くには、小さな神社(金刀比羅神社)がありました。

この場所には、竹中重門、黒田長政と共に、讃岐藩主の生駒一正も布陣していたのです。

彼は陣中に捧げ持ってきた金刀比羅宮の祭神・大物主神の神像をここで松の枝にかけ、戦勝を祈念。

父親の生駒親正(ちかまさ)は西軍に属していたため、彼の心境は複雑だったかもしれません。

しかし結局一正は、関ヶ原の戦いで活躍して1万5千石を加増され、父親も罪には問われませんでした。

これも金刀比羅神の御利益だったのでしょうか。

合戦の後、松の枝にかけた神像を村人がもらい受け、それがこの神社となったそうです。

黒田家と竹中家 親子2代にわたる友情の歴史

ここで、黒田長政と竹中重門にまつわるお話を少し。

黒田官兵衛が、織田信長に背いた荒木村重を説得に行き、有岡城(兵庫県伊丹市)に約1年間幽閉されたとき、信長は黒田官兵衛も裏切ったと考え、羽柴秀吉が長浜城で人質にしていた官兵衛の子・松寿丸(後の黒田長政)を殺すように命じました。

しかし秀吉の軍師・竹中半兵衛は官兵衛の無実を信じ、秀吉には松寿丸を斬ったと報告し、密かに自分の所領(岐阜県垂井町)で松寿丸を匿いました。

後に有岡城が陥落し、救出されて疑いの晴れた官兵衛は、半兵衛の措置に非常に感謝し、竹中家の家紋をもらい受けたと言われています。

でもその時には、半兵衛はすでにこの世の人ではありませんでした。

匿われていた黒田長政は、半兵衛の子・竹中重門と幼馴染となりました(長政の方が5歳年上)。

関ケ原の合戦では、当初竹中重門は西軍に属していましたが、井伊直政の仲介によって東軍に鞍替えし、黒田長政軍と協力して激戦地で奮闘し、伊吹山で西軍の小西行長を捕らえるなど活躍したのです。

東西の首塚 竹中家の戦場後始末

関ヶ原の戦いでは、数は不明ですが、かなりの犠牲者が出たと思われます。

その遺体の後始末を、徳川家康の命令で行ったのが、関ヶ原を支配していた領主・竹中重門でした。

戦死者を埋葬した場所が、東首塚と西首塚。

私達は、家康の本陣の近くにある東首塚を訪れました。

家康によって首実検された西軍の武将や兵士の首が、ここに眠っています。

大きなスダジイの木や、首洗いの古い井戸が印象的でした。

1942年(昭和17年)に、名古屋の山王権現社から本殿や唐門が塚の脇に移転され、東西両軍の戦没者供養堂となったようです。

また、江戸時代の関ケ原宿年寄・古山兵四郎が、首塚の由来や首塚への想いを記した「首級墳碑」もありました。

東西両軍の戦死者の霊よ、やすらかに。

 

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