関ケ原宿脇本陣跡
関ケ原は古戦場の町というイメージが強いですが、こういう史跡もありました。
江戸時代、中山道の宿場町であった関ケ原宿に設けられた、脇本陣の跡です。
脇本陣(わきほんじん)は、江戸時代の宿場に設置された本陣の予備的施設。大きな藩で本陣だけでは泊まりきれない場合や、藩同士が鉢合わせになった場合に格式が低い藩の宿として利用されるなど、本陣に差し支えが生じた場合に利用された。本陣は原則として一般客の宿泊は認められなかったが、脇本陣は大名・勅使などの利用が無い時には一般客の宿泊にも供した。
規模は本陣よりも小さいが、諸式はすべて本陣に準じ、上段の間などもあり、本陣と同じく宿場の有力者が勤めた。
残念ながら建物は残っておらず、立派な門と案内板しかありませんでしたが、宿場町の面影をしのばせてくれました。
レストラン伊吹での昼食
そうこうしているうちに、だんだんお腹も空いてきます。
昼食は、レストラン伊吹で、あんかけ焼きそばをいただきました。
しかしさすがに関ケ原は広い!
このまま徒歩で移動していては、帰りの電車の時間までに、行きたい場所をすべて見学することは不可能ではないか?ということで、レンタサイクルを使うことに。
このコンビニで借りました。
自転車でまず目指したのが、今回一番私が行きたかった場所でした。
大谷吉継のお墓詣りに行くのです。
ちなみに位置関係はこんな感じ(関ケ原駅前の案内地図板より)。
大谷刑部吉継とは
大谷吉継の母親は、秀吉の正室・おねの取次役であり、吉継自身も秀吉の小姓として、後には馬廻衆(親衛隊)として仕えます。
近江出身ということで、同じく近江出身の石田三成とは、馬が合ったのでしょう。
越前敦賀城主であり、また従五位下・刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう 刑部省の№3)に任じられたので、「大谷刑部」と呼ばれています。
業病を患っていたと記録にありますが、ハンセン氏病の他、梅毒説もあるようです。
小説『関ケ原』では、ハンセン氏病説でした。
常に顔を白い布で隠し、晩年には目も見えず、馬にも乗れず、4人が担ぐ輿に乗り、紙の鎧兜を付けて指揮にあたったとも言われています。
茶会の時、皆が吉継の飲んだ茶碗を口にするのを嫌がる中で、三成だけが気にせず茶を飲み、2人の間に熱い友情が生まれたと言われています。
家康とも親しく、1600年に上杉景勝や直江兼続が家康を挑発し、上杉攻めが行われた際には、吉継も兵を率いて徳川軍に参加するつもりでした。
その際、石田三成の嫡男も自分と一緒に従軍させ、三成と家康とを和解させようとしたようですが、逆に三成から、家康打倒の計画を打ち明けられてしまいます。
3度にわたって「無謀である、勝機なし。」といさめましたが、三成の固い決意と熱情にうたれ、敗北を予測しながらも、西軍に加わりました。
1981年(昭和56年)、TBS創立30周年記念番組として、司馬遼太郎さんの『関ケ原』が三夜連続ドラマとして、お正月に放映されたことがありました。
その時に高橋幸治さんが、大谷刑部さまを演じておられたのですが、それがとてもカッコイイ。
セリフ回しも独特で、声もいいし、顔は白布で隠しているけれど、時折見開かれる見えない目が印象的で、結末はわかっているけれど、心底西軍に勝たせてあげたかったのです。
こんなにいい人が友達なんだから、石田三成の株も当然のことながら急上昇。
昔のドラマだから、多分ないだろうなと思いながら、ダメもとで探してみたら、懐かしい友情のシーンがありました(感涙)。
『関ケ原』第二夜「さらば友よ」より
この後、様々な方が演じた大谷刑部さまを見る機会がありましたが、未だに高橋幸治さんを超える刑部さまに出逢えません。
大谷吉継と湯浅五助の墓
さて、その大谷吉継のお墓は山の中。
自転車を降りて、少し山道を歩かなければなりません(道は整備されています)。
しばらく歩くと、大谷吉継の墓(五輪塔)と、側近・湯浅五助のお墓が並んでいました(五助の墓は少し後ろにあります)。
大谷吉継は、当初西軍に属していた小早川秀秋の裏切りを警戒し、万一の時には小早川隊を防ごうと、小早川隊と石田三成隊との間に布陣しました。
親友である三成の盾になろうとしたのでしょう。
そして小早川隊1万5,000が東軍に寝返ると、わずか600の兵を率いて応戦し、前線から引き返した平塚為広らと力を合わせ、一時は小早川隊を押し戻します。
しかし小早川隊の裏切りにより、脇坂・朽木・小川・赤座4隊も裏切ったため、大谷隊は壊滅し、吉継は自害しました。
吉継は側近の湯浅五助に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな。」と命じていたため、五助は介錯した首を埋めました。
その五助もすぐに、東軍の藤堂仁右衛門に捕らえられてしまいます。
五助は自分の首を差し出し、その代わり大谷吉継の首がここにあることを隠してほしいと訴えました。
藤堂仁右衛門は五助の首を討った後、彼との約束を守り、家康から詰問されても、決して大谷吉継の首のありかは話しませんでした。
合戦の後、藤堂家によってこの場所に大谷吉継の墓が建てられ、その隣にある湯浅五助の墓は、1916年(大正5年)に五助の子孫によって建てられました。
大谷吉継、湯浅五助、そして藤堂仁右衛門のエピソードは、今も私達の心を打ちます。
彼らのファンは多いようで、美しい花がたくさん手向けられていました。
大谷吉継と共に戦い、戦場の露と消えた平塚為広の碑も、大谷吉継の陣近くにありました。
この碑は、1940年(昭和15年)、平塚為広の末裔にあたる平塚定二郎(平塚らいてうの父)によって建てられたそうです。
コメントを残す