関ケ原を歩いていると、さすが古戦場の町だけあって、普通の町では見られないものがあります。
例えばこれ。
関ケ原の開戦は、井伊直政の抜け駆け?
そんな標識を見ながら歩いていると、東首塚の敷地内に、赤いのぼりがあることに気がつきました。
近づいてみると、赤いのぼりに井桁の家紋が描かれており、井伊家の旗だとわかりました。
ここは、井伊直政とその娘婿で徳川家康の四男である松平忠吉の陣跡だったのです。
彼らは6千の兵でここに陣を構えました。
21歳の松平忠吉にとっては、この戦いが大事な初陣。
合戦の当日、午前8時頃、東軍の軍監である本多忠勝より開戦を促された両隊は前進し、宇喜多秀家隊の前面に出ましたが、先鋒は福島正則隊であると咎められ、方向を転じて島津義弘隊に攻撃し、開戦の火ぶたが切られたと、解説板には書いてありました。
確かに先鋒は福島隊と決まっていたし、徳川家康は「抜け駆け厳禁」の軍法を出していました。
それを知っていたにも関わらず、福島正則ら秀吉恩顧の大名(いわゆる「外様大名」)ではなく、家康の息子(そして自分の娘婿)に先陣の手柄を立てさせたいという、井伊直政の気持ちがあったのでしょうか。
それとも、関ケ原盆地に早朝立ち込めた朝霧が、周囲の見通しを悪くさせ、思わぬ敵との遭遇があったのでしょうか。
最近は偶発説が支持されているようですね。
この井伊直政・松平忠吉隊は、島津義弘隊との死闘でも知られています。
島津義弘の意地と誇り
元々島津義弘は、徳川家康から伏見城の救援要請を受け、1,000人の軍勢を率いて駆けつけました。
ところが伏見城主の鳥居元忠(家康の重臣)は、そんな話は聞いていないとして、島津隊の入城を拒否。
鳥居元忠は家康への忠誠心は抜群なのですが、頑固一徹なところがありますね(そこが魅力なのですが)。
4万の西軍に囲まれ孤立した島津義弘は、やむなく西軍に属することになりました。
でも石田三成との関係は、あまりよくなかったようです。
戦場で石田三成の使者が援軍を要請してきたとき、下馬せず馬上から申し出たことに対して無礼であると激怒し、怒鳴り返して追い返したと伝わります。
これは、関ケ原ウォーランドの島津義弘。
戦闘に加わらなかった島津隊ですが、東軍が優位になると、戦場で孤立することになってしまいました。
一度は切腹を覚悟した島津義弘でしたが、戦後の難局に立ち向かうため、薩摩への帰還を決意。
普通に考えれば、関ケ原から撤退する場合、西軍なら佐和山方面へ退却するのが自然だし、安全でしょう。
しかし島津の意地とプライドが「退却」を拒絶したのか、精強島津隊の勇猛さと強さを見せつけるべく、義弘は家康の本陣をかすめる形で、伊勢街道へ撤退しました。
「島津の退き口」と呼ばれる撤退戦です。
この時の島津隊の戦法がすさまじいものでした。
捨て奸(すてがまり)
座禅陣とも言われ、本隊が撤退する際に「殿の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めする。そうして小部隊が全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法。足止め隊はまさに置き捨てであり生還する可能性がほとんど無い、壮絶なトカゲの尻尾切り戦法である。
関ヶ原の戦いの際の島津軍では、所属した西軍方が崩壊し周りが徳川方の敵だらけの中で陣を引くにあたり、300程に減っていた兵数で敢えて敵前衛である福島正則隊を正面突破してから、捨て奸戦法を用いて伊勢街道経由で戦場から撤退した。それは敵に視認しづらくするのと射撃時の命中率向上の為に、退路に点々と配置しておいた数人ずつの銃を持った兵達を、あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊の指揮官を狙撃してから槍で敵軍に突撃するものであった。徳川方の松平忠吉、井伊直政、本多忠勝らは島津隊を執拗に追撃したが忠吉と直政が重傷を負い、忠勝が落馬、島津義弘は追っ手を振りきって落ちのびることに成功した。直政はこのとき受けた傷がもとで病死に至ったと言われる。 高い銃の装備率と射撃の腕、さらに勇猛果敢な島津勢だからこそ効果的な運用が可能なこの戦法だったが、義弘の身代わりとなって甥の島津豊久、家老の長寿院盛淳ら多くの犠牲を出し、生きて薩摩に戻ったのは僅かに80余名であった。
松平忠吉は、島津豊久(島津義弘の甥)を討ち取るなどの武功を挙げましたが、合戦で受けた傷がもとで、その7年後に亡くなりました(享年28歳)。
誰からも好かれた人物でしたが、子供はおらず、彼の所領である清州52万石は、弟(家康の九男)である義直が継ぎました。
彼が初代尾張藩主になるわけです。
また井伊直政も、島津義弘の目前まで迫りましたが、銃撃を受けて重傷を負い、その2年後に死去しています(享年42歳)。
なお本多忠勝は、愛馬を撃たれ落馬したものの、ここでもケガはなかったとか。
彼は生涯57回戦いに参加したけれど、かすり傷一つ負わなかったと言われています。
この強運にあやかりたい!
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