大谷吉継の墓詣りを終えた私達の最終目的地は、石田三成の陣がある笹尾山です。
地図で見ると、笹尾山周辺は、このようになっています(JR関ケ原駅前の案内地図板)。
自転車で笹尾山へ行く途中、面白い建物を見つけました。
不破関資料館
国道沿いに建っている、この巨大な門には、不破関資料館と書かれていました。
672年の壬申の乱以降、美濃国不破に関所が置かれ、不破関と呼ばれていました。
「関所がある原っぱ」だから、現在の「関ケ原」という地名がついているのです。
この関所が、「関西」「関東」の語源や、東日本と西日本の境目の1つになっているともいわれています(諸説あり)。
ここは畿内(都に近い5国 大和・山城・摂津・和泉・河内)と東国(東山道)の接点にあたります。
701年に制定された大宝律令では、東海道鈴鹿関(伊勢国)、北陸道愛発(あらち)関(越前)と共に、三関と呼ばれました。
古代、三関は天皇の交代など政情不安の際交通を遮断のため、堅く閉められていた[三関には鼓吹軍器、すなわち兵器類が常備され、必ず複数の国司四等官が関を守護するため常駐する規定があった。この常駐四等官は城主とよばれ、非常事態に備えていた。
非常事態が発生すると、朝廷は三関に固関使(こげんし)を派遣する。この際、蔵司が保管する関契とよばれる割符の左符が固関使に与えられ、三関で国守によって保管されていた右符と照合を行なう。これが一致すると非常事態と認められ、関が閉鎖された。これを固関と呼ぶ。非常事態が解消した後の解関(開関)も同様の手続きによった。
関を閉鎖するのは東国から畿内への侵入を防ぐ為である。特に中央で非常事態が発生した折に、その期に乗じての東国から畿内への侵入を防ぐ目的である。また中央の謀反者の東国への逃走を防ぐ目的もあり、天平宝字8年(764年)の藤原仲麻呂の乱では、愛発関を閉じる事で仲麻呂が息子のいる越前国へ逃げる事を防いだ。
不破関は789年(延暦8年)、桓武天皇の時代に廃止され、兵器や兵糧は美濃国府へ移されるなどしましたが、完全には放棄されず、江戸時代の天保年間まで、天皇の崩御や摂政・関白の死去に伴う儀礼的な固関は続いたようです。
資料館には、関所跡から出土した土器類や関所を復元したジオラマ、壬申の乱についての解説パネルやビデオなどがあって、古代史の学習ができました。
関ケ原は、古戦場だけではないと、よくわかる場所です。
石田三成の陣跡
やっと笹尾山に到着しました。
こんな車が停まっているのも、関ケ原らしいです。
ここにある石田三成の陣跡には、防御設備としての竹矢来や馬防柵が復元され、当時の様子をしのぶことができました。
馬防柵というのは、言葉では聞いたことがあるのですが、こうして間近で見ると、大迫力です。
三成の重臣で「三成には過ぎたるもの」と言われた猛将・島左近は、この竹矢来の前方に陣取り、最前線で指揮をしていたと伝わります。
島左近の勇猛果敢さが、よくわかりますね。
笹尾山の上からは、戦場が一望できます。
地図を見ながら、桃配山(家康本陣)や松尾山(小早川秀秋の陣)を探してみました。
刻々と移り変わる戦況を、三成はここから、どのような想いで見ていたのでしょうか。
戦略的には、小高い丘の上に陣地を置いている西軍の方が、絶対勝つはずだったのに。
小説『関ケ原』では、石田三成は豊臣家のために、正義のために家康と戦ったと描かれています。
彼の無念を思うと、桃配山や松尾山に向かって、大声で罵詈雑言を浴びせたくもなります。
TBS創立30周年記念ドラマ『関ケ原』では、加藤剛さんが、正義感は強いけれど、とても真面目で融通が利かない所もある石田三成を、見事に演じておられました。
今年の夏公開される映画『関ケ原』では、石田三成役は岡田准一さんです。
どんな三成になるのか、今から楽しみですね。
余談ですがこの予告編は、大好きな『カルミラ・ブラーナ』の「おお、運命の女神よ」という合唱曲がとても効果的に使われているので気に入っています。
所々に、戦国武将や兵士に扮した人たちがいて、解説もしておられました。
どこかに島左近に扮しておられる方がいたのかもしれませんが、話しかけたり、一緒に写真を撮る勇気はありませんでした。
黒い鎧の人は島左近さんかな?
徳川家康の桃配山の陣では、ほかの多くの関ケ原の史跡のように石碑だけが建っていて、当時を再現している施設はないのだとか。
もちろん、三成の陣跡にも石碑は建っています。
三成の陣が観光的に充実しているのは、敗者の石田三成に対する、地元の方々の思いやりなのでしょうか。
関ケ原古戦場決戦地碑
この近くに、関ケ原の戦いの「決戦の地」碑があります。
小早川秀秋の裏切りにより東軍が優位になると、西軍の(実質的)総大将は石田三成であるため、石田隊に東軍の攻撃が集中しました。
石田隊ら西軍もよく戦いましたが、ついに西軍の敗北は決定的になってしまいます。
島左近も、この場所で戦死したのでしょうか(無事に生き延びたとも伝わります)。
決戦の地から見た、笹尾山です。
石碑には東西両軍の旗が建っており、東西両軍の和解と犠牲者の鎮魂を心から祈りました。
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