京都・木屋町界隈に残る史跡 元・立誠小学校と高瀬川一之船入

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梅雨晴れの京都へ

昨日久々に京都に行ってきました。

京都に行くのは久しぶりです。

昨日は梅雨入りしたとは思えない、とてもいい天気で、爽やかだけれど少し汗ばむ陽気でした。

河原町駅の地下から地上に出ると、東山の緑がひときわ鮮やかに見えます。

今日の目的は、木屋町で昼食をいただくこと。

早速木屋町通りへ行ってみました。

旧土佐藩邸跡と元・立誠小学校

木屋町界隈は、高瀬川沿いに柳や桜の並木道が続き、車道は狭く、自動車が高速で走ることもないため、歩行者にとってはとても散策しやすい道です。

特に昨日は、並木道が木陰を遮ってくれたので、気持ちよく歩けました。

この辺りは京都でも有名な繁華街の一つで、喫茶店、料亭、各国料理店、バー、スナックなどが立ち並んでいますが、幕末から維新にかけての歴史の舞台になったことでもよく知られています。

この辺りには、土佐藩の京都藩邸がありました(写真は2009年に撮影)。

幕末の土佐藩は武市半平太(瑞山)や坂本龍馬などの志士を多数輩出し、彼らが潜伏していた場所もこの辺りに点在しています。

この土佐藩邸跡には、京都市立立誠小学校という、とても立派な小学校がありました。

元々は1869(明治2)年に、京都の町衆(京都の裕福な商工業者)の手によって、当時の自治組織であった「番組」を単位として設立された学校で、日本で最初の学区制小学校64校の1つとして、河原町三条に設立されました。

当初の名前は、「下京第六番組小学校」でした。

やがてこの地に移転され、新しい校舎は1928(昭和3)年に完成した、ロマネスク様式の立派なもの。

当時としては異例ともいわれる多額の工事費は、税金の他に住民からの寄付や債券の発行で賄われたとか。

学校建設に賭ける当時の京都市民たちの熱情が伝わります。

生徒数減少に伴い、1993(平成5)年に閉校しましたが、校舎やグラウンドはそのまま残り、様々なイベントに活用されてきました。

高瀬川沿いの立派な校舎やグラウンドは、以前からとても気になっていました。

大好きな森見登美彦さんの小説『聖なる怠け者の冒険』の冒頭でも、この小学校のグラウンドが舞台として使われています。

昨日訪れた時には、「立誠シネマ」というプロジェクトが開催されていました。

7月30日(日)で、このプロジェクトも終了するとか。

これからどのように、この伝統ある校舎は活用されていくのでしょうか。

高瀬川と角倉了以

木屋町通りを流れる高瀬川は、角倉了以父子によって造られた全長10km、幅7mの運河です。

慶長15年(1610年)、方広寺大仏殿の再建において、角倉了以・素庵父子は鴨川を利用して資材運搬を行った。 その後慶長19年(1614年)に、父子によって、京都・伏見間の恒久的な運河が開鑿された。これが高瀬川である

水深は数十cm程度と浅く、物流には底が平らで喫水の低い高瀬舟と呼ばれる小舟が用いられた。 二条から四条にかけては、荷物の上げ下ろしや船の方向転換をするための「船入」が高瀬川から西側に直角に突き出すように作られた(現在は、史跡指定されている「一之船入」を除き、すべて埋め立てられている)。

『ウィキペディア』

現在でも水深が浅い高瀬川ですが、水は美しくて涼しげです。

川沿いには、アジサイが咲いていました。

川の中には鷺もいました。

鷺にもいろいろな種類があるそうです。これは何かな?

二条から四条の間に9箇所設けられていた船入のうち、木屋町二条にある「一之船入」が史跡として保存されています。

この辺りが高瀬川の起点になります。

ここには森鴎外の名作『高瀬舟』でよく知られている高瀬舟も復元され(初めて見ました)、当時の姿を偲ばせてくれます。

高瀬川で使われていた船だから「高瀬舟」と呼ばれたのだとずっと思っていたのですが、逆でした。

高瀬舟の方が先に使用されており、高瀬舟が使われた川として「高瀬川」と名づけられたのです。

高瀬舟は高瀬川以外でも、各地で利用されていたようでした。

高瀬川を開削した角倉了以は、室町時代から栄えた土倉(高利貸し)・角倉家の出身で戦国時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した商人です。

安南国(ベトナム北部~中部)との朱印船貿易で財を成しますが、私財を投じて富士川、天竜川、大堰川、高瀬川などを開削したことで知られています。

「一之船入」の近くに、角倉家の邸宅がありました。

高瀬川開通後、角倉家は通行料を取り、莫大な利益を上げたと言われます。

一般の人々にとっても、従来通り人馬で荷物を運ぶより、高瀬川を利用する方が採算性が高かったようで、木屋町筋には多くの材木屋や問屋が立ち並んで賑わったようです。

現在角倉家の邸宅跡は、日本銀行京都支店の敷地になっていました。

中世から栄えた高利貸しの角倉家邸宅跡が、日本銀行になっているのも、何かの因縁のように思えます。

ちなみに、角倉了以の子孫は今も活躍されておられ、ヴァイオリニストの千住真理子、作曲家の千住明、日本画家の千住博のいわゆる「千住3兄弟」の母・千住文子さんは角倉家の出だそうです。

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