7月16日(日)の台湾観光のメイン、花蓮市の馨憶精緻(しんいせいち)民宿が主催する、タロコ渓谷歴史探訪1日ツアーの続きです。
スニヨン中村輝夫一等兵のこと
このツアーでは、年配の民宿のご主人がガイドになって、移動中も台湾の歴史や地理、原住民のことなどについて教えてくれるのですが、その中でとても懐かしい名前に出逢いました。
中村輝夫一等兵。
昨年、台湾旅行していた時に持参して読んだ司馬遼太郎さんの『街道をゆく40 台湾紀行』で紹介されていた(「浦島太郎たち」の章)残留日本兵です。
残留日本兵というと、グアム島に潜伏していた横井庄一軍曹(1972年帰国)、フィリピンのルバング島に潜伏していた小野田寛郎少尉(1974年帰国)が有名ですが、小野田少尉より10カ月も後にインドネシアのモロタイ島に潜伏していたところを発見されたのが、中村一等兵でした。
彼は台湾原住民アミ族出身で、高砂義勇隊(戦争末期、台湾原住民により編成された日本軍部隊)に志願し、彼だけでなく彼の家族も数奇な運命をたどりました。
横井さんも小野田さんも知っているのに、スミヨン中村輝夫さんのニュースを私は覚えていません。
単純に私が覚えていないだけなのか、それとも彼が台湾に帰国したので、ニュースの量が少なかったのか。
ともあれ『台湾紀行』を読んでいてよかったと思いました。
日本野球界で活躍した台湾原住民
ご主人はアミ族の有名人として、中村輝夫一等兵と、読売ジャイアンツに所属する陽岱鋼(ようだいかん)選手を挙げられ、アミ族の運動能力が素晴らしいと教えてくれました。
昨日花蓮の夜市でアミ族(多分)の踊りを見ましたが、踊るときにはかかとを付けないのだとか。
なかなか大変な、体力が必要な技術です。
昨年台湾を訪れたのは、『KANO 1931海の向こうの甲子園』の舞台となった嘉義市を訪れるというのも目的の1つだったのですが、あの嘉義農林学校野球部にも、アミ族やプユマ族といった原住民の部員がいました。
彼らは実は、野球のために越境入学をしていたのです。
「名野球選手多数の台湾、郭源治や陽岱鋼の故郷と日本を繋ぐ線」(NEWSポストセブン)
『KANO』に登場したプユマ族の上松(あげまつ)耕一選手の話は、『台湾紀行』(「千金の少姐」の章)に紹介されています。
余談ですが、『台湾紀行』に登場した司馬さんの案内役「老台北」が、今月17日に死去されました。
日本を愛した「老台北」蔡焜燦氏が死去 日本への最後のエール(NEWSポストセブン)
心から冥福をお祈りいたします。
そしてまた、『台湾紀行』を少し読み返しています。
清水断崖へ
そういう話をしているうちに、台湾八景の一つ、清水断崖にやってきました。
清水山(標高2,408m)の裾野が、そのまま太平洋に落ち込んでいます。
海の色はとても美しいターコイズブルーで、(失礼ながら)台湾にこんなきれいな海があるなんて、想像していませんでした。
まさに「美麗島」(ポルトガル語の「フォルモサ」)にふさわしい絶景です。
こんなに海がきれいだと、絶対泳ぎたくなる人が出てくると思うのですが、泳げるのかな?
微妙に砂浜があるようで、釣り人らしき人影は発見しました(岩の上)。
ともあれ天気のいい時に来ることができて、本当に良かったです。
海の色も、時間と天気によって、刻々とその色を変えていきました。
この断崖の山を縫って、鉄道や道路が通っています。
台北と台東を結ぶ北廻線の列車が通るのを見ましたが、まるでおもちゃのように小さく見えました。
写真が撮れなかったのが残念です。
きっと厳しい工事で、犠牲者も多かったのでしょう(黙祷)。
ランチタイム
タロコ渓谷見学の前に、渓谷の近くにある「太平洋食府」というレストランで、ビュッフェ形式の昼食となりました(1人250元)。
レストランは、新城・太魯閣駅の近くにありました。
同じツアーに参加されているTさまご夫婦と楽しくお話ししながら、好きな料理を食べ放題!となるはずだったのですが、朝食に食べた小籠包と餃子の影響で、あまり食べられなかったです。
でも少しずつ、一通りは食べられたので、悔いはありません。
れは台湾グルメの代表、魯肉飯(ルーロウファン)。
ことこと煮込んだ豚肉の切れ端(こってり味)をご飯にかけます。
途中からどんどんほかのグループの団体も入ってこられ、ちょっと落ち着かなかったけれど、午後の観光に向けて、英気を養うことができました。
コメントを残す