石田三成に過ぎたる重臣・島左近
映画『関ケ原』で大活躍の島左近は、本名・嶋(本人はこちらの字を使用)清興(きよおき)。
左近は通称名です。
大和国の出身で(柳生家とも婚姻関係があった)、筒井順慶の家臣でしたが、順慶の跡を継いだ甥の定次と意見が合わず、筒井家を辞したと言います。
その後大和を支配した豊臣秀長や秀保に仕え、彼らの死後は多くの仕官要請を断って浪人生活をしていましたが、石田三成が三顧の礼をもって仕官を要請したため、彼に仕えることになりました。
三成の当時の禄高(年収)4万石の半分、2万石を彼に与えるという破格の待遇でした。
「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの逸材だったとか。
三成の城・佐和山城があったのは、現在の彦根市です。
JR東海道本線沿線にある佐和山城跡は、車窓からもよく見えますね。
この佐和山城のふもとにある清凉寺(井伊家の菩提寺で、井伊直政の墓もあります)が、島左近の屋敷跡と言われています。
とても広大な敷地で、島左近が三成から大事にされていたことがよくわかりました。
常陸国の戦国大名佐竹氏に書状を出したり、三成と共に朝鮮出兵にも従軍したりと、外交・軍事両面で活躍したようです。
誤解されやすくて(子供みたいなところもある)戦争が下手な石田三成を、懸命にサポートしていたのでしょう。
関ケ原の戦いの時は60歳!
この島左近、関ケ原の戦いの時にはなんと60歳だったのです。
ちなみに石田三成が40歳、大谷刑部35歳、徳川家康57歳、家康の謀臣・本多正信が62歳なので、小早川秀秋の18歳がダントツに若いというのが、よくわかりました(いずれも満年齢)。
石田三成が真面目で融通の利かない正義感なのですが、島左近は勝つためには手段を択ばず、家康暗殺も計画しましたが、失敗したと言われます。
以前のTBS大型時代劇『関ケ原』では、家康暗殺のシーンもドラマ化されていたように思うのですが、今回はそれがなかったのがとても残念。
でも戦場での働きぶりは、とても60歳とは思えないすさまじさでした。
これは関ケ原古戦場の「決戦地」の碑ですが、ここで多分激闘が繰り返されたのでしょう。
記録でも、鬼神のような勇猛奮戦ぶりが長く語り伝えられたと言います。
笹尾山の三成本陣跡です。
以前ここを訪れた時に、あの黒い鎧の武将が島左近さんかな?と思ったけれど、気恥ずかしくて声をかけることができませんでした。
今も笹尾山で、島左近さんが活躍されていることでしょう。
映画では、三成の陣に朝鮮人の兵士たちやフランキ砲?が出てきたのにびっくりしました。
島左近は関ケ原で討ち死にしたとも、生き延びたともいわれていて(伝説に過ぎないのかもしれませんが)、確かTBSの時代劇では「行方知れず」と紹介されました(その方がロマンがあって、いいかも)。
今回の映画では、医術を生かして三成の陣営で活躍する妻・花野や、小早川の陣へと向かう嫡男・信勝という島ファミリーが大活躍だったのが印象に残っています。
がんばれ、しまさこにゃん!
2009年に初めて彦根市を訪れました。
その時のお目当てはひこにゃんだったのですが、彦根城観光を終えた後、土産物屋でとても心惹かれるキャラクターを発見しました。
それが、ひこにゃんのライバル、しまさこにゃんという、島左近が猫に転生したゆるキャラです。
性格は粗野で無骨、普段は飄々としているけれど実は切れ者。
義理人情に厚く、酒好きで奇襲戦法や待ち伏せなど、手段を択ばない作戦が得意のようです。
あれから彦根の商店街には行っていないけれど、しまさこにゃん、今も元気で頑張っているかな?
しまさこにゃんは、司馬遼太郎さんの小説『関ケ原』を読んで涙するようですが(私はまだ読んだことがないのです)、映画『関ケ原』を見たら、どんな感想を持つでしょうか。
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