名水の町大野市
クラブツーリズムの大阪発日帰りバスツアー「2日間限定のクラブツーリズム特別企画!宝物館特別公開と二胡ミニコンサート開催!越前の苔寺!白山平泉寺と越前大野城」で大野城を訪れ、初めて福井県大野市に足を踏み入れた私達。
大野市でのバスツアー目的地は「天空の城」大野城だけでしたが、それ以外にも名君と謳われた7代藩主・土井利忠の業績を知ることもできました。
次に訪れたのは、「名水の町・大野市」の象徴でもある「御清水(おしょうず)」です。
バスの駐車場にも隣接しているというので、早速行ってみました。
「御清水(おしょうず)」とは
大野市が「名水の町」として知られているのは、地下水が豊富で、湧水地が町の至る所にあるため。
中でもこの「御清水」は、大野城と城下町・大野を築いた金森長近が水溜りを設けて城郭内堀の源泉とし、災害や戦争に備えたものでした。

また、藩主の「米かしき水」として使われていたことから、殿様清水とも呼ばれています。

現在も、大野市の共同洗場として重要な役割を果たしているそうです。

1985(昭和60)年当時の環境庁名水百選にも選ばれた味わい豊かな水です。

そのためポリタンク持参で、名水を汲みに来ている人たちがたくさんいました。
私達も、手ですくって一口ずつ飲んでみました。


大野城に登ったりして喉が渇いていたので、とても美味しかったです。
朝倉義景の墓
越前国の戦国大名として有名な朝倉義景の墓が、御清水から歩いて行ける距離にあるというので、集合時間を気にしながら行ってみました。

朝倉義景といえば、暗殺された室町幕府の13代将軍・足利義輝の弟である足利義昭を匿うけれど、上洛戦には消極的であったたため、義昭は織田信長を頼ることになってしまいました。
そして足利義昭を擁する信長は、浅井長政と妹のお市を結婚させて上洛に成功し、足利義昭は室町幕府の15代将軍になりました。
朝倉義景は将軍の命令による上洛を拒否。
信長も美濃の隣国である越前の朝倉義景を警戒し、越前に出兵します。
しかし浅井長政が信長を裏切って織田軍の背後を襲い、信長は絶体絶命となりますが、朝倉義景はこの絶好のチャンスを生かすことができず、信長や有力武将を取り逃がしてしまいました。
1573(天正元)年、武田信玄の死去に伴い信長包囲網が崩れ、浅井長政も滅ぼされてしまいます。
朝倉義景は、大野郡司であった従兄弟の朝倉景鏡(かげあきら)の勧めでこの地にあった賢松寺に逃れますが、その朝倉景鏡が信長軍と通じ、義景を襲撃したためあえなく自害(享年41歳)。
遺された家族も信長の命令を受けた丹羽長秀によって殺害され、戦国大名としての朝倉氏は滅亡しました。
これに比べると、どこまでも生き延びた今川氏真の身の処し方は、やはり見事なのでしょうか。
戦国時代は裏切りが多いとはいえ、頼りにしていた一族に裏切られた義景は、とても気の毒です。
その朝倉義景の墓は、住宅街にある整備された公園の中にありました。

ちょうどこのバスツアーの2日前、『歴史秘話ヒストリア 浅井長政 戦国ぽっちゃり男子の愛と誠』を見ていたので、不思議なご縁だなと思いました。

彼は戦国武将としては不遇でしたが、産業や文化を保護しており、もし信長が出兵さえしなかったら、越前はもっともっと繁栄していたでしょう。
彼は晩年政務を顧みず、酒池肉林におぼれて朝倉家を滅亡させたと言われていますが、その行動も、愛した妻や子が次々と亡くなってしまったからだとか。

この辺りも名水の湧出地で、その名も「義景清水(よしかげしょうず)」と呼ばれていました。

「御清水」ではいなくなったイトヨという魚が、ここには生息しているそうです。

不遇だった朝倉義景ですが、今では大野市でとても大切にされているので、少し嬉しくなりました。
ちなみに彼を裏切った朝倉景鏡は、織田信長から本領を安堵されましたが、後に一向一揆の標的となり、白山平泉寺に籠りますが劣勢となり、幼い子供たちと共に敗死しています。
一向一揆との戦いで、白山平泉寺も全勝してしまいました。
今日のバスツアーで訪れた最初の目的地、白山平泉寺と朝倉義景が、こんなところで結びついていました。
後の記録に陰湿な人物として描かれる朝倉景鏡と比べると、朝倉義景は、まだ幸せなのかもしれません。
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