台風接近中の円覚寺観光2 北条時宗と家族を偲びつつ、2度目の国宝拝観拒否に涙する 

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白鹿洞(びゃくろくどう)

円覚寺の舎利殿を拝観できなかった私達でしたが、更に奥へと進み、面白いものを見つけました。

円覚寺の開堂儀式の際、無学祖元の法話を聞くために白鹿の群れが飛び出してきたという洞窟だそうです。

雨が降っていたし、先を急いでいたため近寄れませんでしたが、洞窟には心惹かれます。

黄梅院(おうばいいん)

南北朝時代の高僧、そして作庭家として名高い夢窓疎石の塔所(供養塔)のある塔頭(たっちゅう 付属寺院)。

円覚寺境内の最奥で最も標高の高い位置に所在する塔頭なので、存在感は抜群です。

ここは元々、北条時宗の妻・覚山尼(安達泰盛の妹)が、夫の三回忌に建てた華厳塔があった場所でした。

やがてその場所に夢窓疎石の塔所が建てられて黄梅院となり、室町幕府2代将軍足利義詮(よしあきら)の遺骨が分骨されて、足利氏の菩提寺になったそうです(存在感抜群の理由でしょう)。

ここはとても庭が広くて美しく、観音堂以外にも、庭に観音像があったりして、作庭家の夢窓疎石を慕う弟子が建立した塔頭らしく思われました。

佛日庵(ぶつにちあん)

円覚寺を建立した8代執権北条時宗と、子の9代執権北条貞時、孫の14代執権北条高時の廟所で、「開基塔」とも呼ばれています。

ここは別途大人100円の拝観料が必要でした。

でも、門にこんな札が掛けてあると、行くしかないと思いました。

この日は10月22日でしたが、最後の得宗(とくそう 北条氏本家の当主)である彼が死んだ1333年のこの日に、鎌倉幕府は滅んだのかな?

拝観料を支払って尋ねてみると、今日は北条高時の月命日で、命日は5月22日だそうです。

ここも庭が美しく、境内の茶室烟足軒は、川端康成の小説『千羽鶴』に登場する茶室のモデルになったのだとか。

でも茶室は時間がなくて、拝観できませんでしたが、ここも庭がきれいでした。

とりあえず、まずは北条時宗のお墓詣り。

中央の大きい像が時宗、その左が子供の貞時、さらにその左が、今日が月命日の北条高時。

石碑を建て、その上に木像を祀るお堂を建てるというのは、国に特に業績のあった人物にだけ許される正式な廟所だそうです。

北条時宗は過小評価?

蒙古襲来は小学校から必ず学習する事項だし、北条時宗も有名人だと思うのですが、広く知られている肖像画がある源頼朝に比べると(最近別人の足利直義ではないかと言われていますが)、どうもイメージが湧きにくい。

北条時宗も、もう少し(フビライ=ハーンと同じくらい)肖像画や肖像彫刻が出回っていてもいいのに。

18歳で執権になり、24歳で文永の役、31歳で弘安の役、34歳(満年齢32歳!)で死去なんて、ある意味すごく濃い人生。

以前NHKの大河ドラマで取り上げられたけれど(2001年放映『北条時宗』)、最後まで見ていませんでした。

あの時の和泉元彌さんは狩衣がよく似合っていて素敵だったけれど、今はどうなさっているのかな。

個人的には、神風の襲来もあったかも知れないけれど、蒙古軍への備えをしたり果敢に奮闘した鎌倉武士たちの活躍も大きかったと思っているし、北条時宗もよく頑張ったと思っているのですが、福岡市に行ったとき、すごく違和感を感じました。

蒙古襲来(文永の役)の古戦場であった東公園には、朝廷を率いて「敵国降伏」を祈った亀山上皇と、国難を予言した日蓮の像はありますが、北条時宗の像はないというのです。

まぁ日蓮と敵対し、迫害したから並び立つのは無理だろうけれど、せめて博多湾のどこかに銅像くらい造ってあげればいいのにと思いました(子孫や教団がないから難しいかな)。

最近、BS-TBSの『諸説あり! 蒙古襲来 神風は吹かなかった』という番組で、敗戦後にアメリカ軍が、日本を軍事国家にしないよう、蒙古襲来を撃退したのは鎌倉武士や北条時宗ら幕府の活躍ではなく、神風にウェイトを置くようにしたという説を聞きました。

日本人は強かった!自力で外国の侵略を食い止めた!と思わせないようにしたいという、占領政策の一環だったのだとか。

まんざら、荒唐無稽とも思えませんでした。

戦前には、北条時宗はもっと評価されていたということです。

異母兄の時輔(ときすけ)や日蓮など、自分と対立する人物には容赦しませんでしたが、1つ年下の妻や一人息子を大切にしたという彼は、なかなか興味深い人物。

死を意識した時宗と共に妻(覚山尼)も出家剃髪し、時宗はその日のうちに亡くなったとか。

フビライ=ハーンとの戦いに、人生のすべてのエネルギーを費やした、短い人生のようにも思えました。

今日は国宝に縁がない

佛日庵を出て、そろそろ円覚寺を後にしようと、総門へと進みました。

途中で見かけた、方丈の正門(唐門とも呼ばれ、天皇の使者が使用する「勅使門」)です。

さらに進むと、北条貞時(時宗の子で9代執権)が江の島に参籠し、天下泰平・万民和楽を祈って鋳造したという国宝の「洪鐘(おおがね)」があると、案内板に書かれていました。

しかし何ということか、台風接近のため、「洪鐘」へ至る道は閉鎖されていたのです。

円覚寺舎利殿に続き、度重なる国宝拝観不可にもうがっくり。

せめて案内板だけでも撮影しました。

この階段を登れば、国宝の巨大な鐘と、素晴らしい景色が待っているそうです。

やはり再度行くしかない!

円覚寺を去るとき、供花らしき花束をもって石段を上がっていく、黒いスーツの男性を見かけました。

きっと誰かのお墓詣りなのでしょう。とても姿勢のいい、すっとした姿が印象的でした。

「北条高時の子孫だったりして。」夫が冗談を言いました。

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