『おんな城主直虎』徳川と今川ゆかりの静岡市を歩く1 静岡駅北口の銅像と臨済寺

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遠江と駿河はやっぱり違う

昨年の5月1日、静岡市で徳川家康や今川義元ゆかりの場所を訪れました。

その前日、浜松市で井伊直虎の史跡巡りをしたのですが、まだ撮影も始まっていないのに、すでに浜松市は井伊直虎の地元ということで、新幹線の浜松駅構内からすでに盛り上がっていました。

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それなのに、新幹線で二駅しか離れていない静岡市に行ってみると、『おんな城主直虎』の幟なんて、影も形もありません。

同じ静岡県なのに、この温度差は何だろう?

やはり駿河国(静岡市)と遠江国(浜松市)は違うみたいでした。

徳川家康の存在感

静岡市は、駿河国の国府(今の県庁所在地にあたります)がおかれた場所であり、明治までは「駿府」と呼ばれていました。

この町を愛したのが、徳川家康。

今川家の人質としてここで幼少期を過ごし、1585年に駿府を本拠地に定め、江戸幕府を開いて隠居した後は江戸城から再び駿府城に戻り、ここで大御所として政務をとりました。

JR静岡駅北口駅前広場には、家康の少年期である「竹千代君像」と

東海地方五カ国を支配したころの「徳川家康公像」の、2体の家康像がありました。

どちらもイメージ通りなのですが、可愛い竹千代君や、ちょっと豆だぬきっぽい阿部サダヲさんが、こんなに恰幅良くなるとは。

この徳川家康公像の後ろのビルは、葵タワーというらしいのですが、この窓もなかなかでした。

やっぱり静岡は、井伊直虎よりも徳川家康ですね。

今川家の菩提寺・臨済寺

静岡市でも(どこでもですが)駆け足滞在の私達は、時間短縮のため、タクシーに乗って今川家や徳川家にゆかりの場所を巡ることにしました。

ところが今川家ゆかりの場所が、静岡市にはあまり残っていない。

室町時代から戦国時代にかけて今川家が支配し、「東国の都」とよばれて全国でも三本の指に入るほどの文化都市を築いたというのに、桶狭間の戦いでのイメージが悪いのか、或いは戦国大名としては滅んでしまったためか、静岡市では今川家の影が薄いのです。

でも今川家の菩提寺・臨済寺は、なかなか面白かったです。

山門の「大龍山」の額は、徳川慶喜の揮毫によるものだとか。

ここは今川氏親が、出家した息子の栴岳承芳(せんがくしょうほう、後の今川義元)のために、臨済宗の僧侶・太原雪斎(たいげんせっさい)を招き建立した寺院が前身で、今川義元が今川家当主になると臨済寺と改められ、兄の氏輝を葬りました。

雪斎の力で臨済寺は大いに繁栄し、彼はこの寺の住持でありながら戦国大名・今川家の軍師となり、今川義元のもとで軍事・政治・外交に優れた手腕を発揮しました。

また、徳川家康が幼少期に、今川家の人質だった際には、この臨済寺で雪斎から教育を受けたことでも知られています。

下の写真は、国の重要文化財に指定されている本堂(大方丈)。

現在は雪斎や今川氏輝・義元らの墓所があるとともに、歴代今川当主の位牌が安置されています。

この寺院では現在も修行僧が生活・修行しているため、本堂前までは入れますが、そのほかの部分は非公開でした。

武田軍の侵攻により、臨済寺も焼失しましたが、武田氏滅亡後に駿河を領有した徳川家康によって再興され、徳川家康ゆかりの寺として江戸時代を通じて手厚い保護を受けたようです。

立派な建物が多く、下の写真は本堂と大書院(右)

下の写真は、坐禅堂(左)と本堂です。

年2回だけ特別拝観が実施されるということで、その時には今川家や徳川家康、雪斎などのゆかりの品や墓地などが拝観できるかもしれません。

今日は修行の邪魔にならないように、静かに帰りました。

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