家康が信仰した静岡浅間(せんげん)神社
駿河国府として「駿府」と呼ばれた町は、江戸幕府が滅びると「静岡」と改名されました。
その地名の語源となったのが賤機山(しずはたやま)という山で、古代より神聖な山とされていたようです。
その山の麓に鎮座するのが、静岡浅間神社。
とても立派な楼門です(国の重要文化財)。
鎌倉将軍家や武田、今川など多くの人々に尊宗されたようですが、特に徳川家康は生涯にわたり篤く信仰したようです。
14歳の家康は、ここで元服式を行いました。
また1582(天正10)年、三河・遠江の戦国大名となっていた家康が、賤機山に築かれていた武田氏の城塞を攻略するにあたり、無事攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建するとの誓いを立てた上で当社の社殿を焼き払い、駿河領有後に現在の規模と同程度の社殿を建造したそうです。
家康が大御所として駿府在城時の1607(慶長12)年には、天下泰平・五穀豊穣を祈願して、稚児舞楽(現、静岡県指定民俗文化財・4月5日奉奏)を奉納しました。
江戸時代には、臨済寺同様、江戸幕府によって手厚く保護されたようです。
手水舎も豪華です。
舞殿(上)や大拝殿は重要文化財。
とても立派な大拝殿の彫刻でした。
文化財資料館もあり、今川家や徳川家康ゆかりのものはないかと見学してみました。
残念ながら今川家関係のものは見つけることができませんでしたが、駿府城の模型や、鷹狩をする家康像などがあり、やはりここでも家康の存在感は大きかったです。
なお、静岡浅間神社公式サイトによると、文化財資料館には古文書・古記録(今川家・武田家・豊臣家・徳川家等約110通)があると紹介されているので、私が貴重な古文書をうっかり見落としていただけかもしれません。
肉フェス会場になっていた駿府城公園
駿府にあった今川館は武田軍の侵攻によって焼失し、その後駿河を領有した徳川家康によって、近代的な城郭である駿府城が築城されました。
1632(寛永9)年、徳川家光の弟・駿河大納言で駿府城主の徳川忠長が自刃してからは城主不在となり、火災で城が焼失すると御殿・櫓・城門等は再建されましたが、城主がいないため天守は再建されなかったようです。
駿府城の城郭のうち、中堀の内側の旧本丸・二の丸跡は整備されて駿府城公園になりました。
ここに行くようお願いしたら、タクシーの運転手さんが、「あんなところ、何もありませんよ」というので、ちょっと心配でした。
でも行くと人がいっぱい。なんと、肉フェスが開催されていて、あちこちで行列ができていたのです。
関西でも人気の伊賀牛、頑張っているようですね。
肝心のお城関係はないのかなと思ったら、駿府城の解説板や、大好きな鷹狩をしている徳川家康像を発見。
「家康公お手植えみかん」というのもあってびっくり。厳重にガードされていました。
いつかこの無粋な柵が取り払われればいいのですが。
解説板は他にもありました。
天守閣があったあたりは、マロニエ園という広場になっており、元市長や静岡の特産品であるお茶のやぶきた種、青島温州みかんの生みの親の像などがありました。
復元された東御門を発見!
巽櫓(たつみやぐら)も復元されており、内部はそれぞれ資料館になっているようでした。
肉フェスもいいけれど、お城らしい建物を見ることができてほっとしました。
徳川慶喜の屋敷跡・料亭「浮月楼」
タクシーから降りて、静岡駅前で買い物をしていた時、偶然面白い建物を見つけました。
とても広いお屋敷のような場所で、解説板もあったので読んでみると、元々代官屋敷だったこの場所は、明治になって徳川慶喜の屋敷となり、鉄道が開通して騒がしくなったため移転するまでの20年間、ここで過ごしたようです。
現在は、料亭「浮月楼」として営業されています。
庭園も慶喜(地元ではケイキさんと呼んでいました)が造ったのだとか。
今は結婚式場もやっていて、きれいな庭に着物姿の若い女性たちがいて、写真撮影をしていました。
江戸幕府最初の将軍と最後の将軍ゆかりの場所が、江戸ではなくてここ静岡市だというのも面白いなと思いました。
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