三筆の中で異色の橘逸勢
『空海−KU-KAI− 美しき王妃の謎』では登場しない(消された!)けれど、原作『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』の中では、空海の相棒(バディ)として大活躍の橘逸勢(たちばなのはやなり)。
頭脳明晰で語学堪能。呪を操って縦横無尽の大活躍をする野心家・空海の友人として描かれる彼も、日本ではとても教養がある野心家だけれど、空海と比べれば、私達ととても近い「普通の人」。
少しひねくれているけれど、素直で人間味あふれていて、ちょっと人間離れしている空海とは違って、「とてもいい漢(おとこ)」。最初に読んだ時から大好きでした。
実はこの原作を読む前から、橘逸勢という人には興味がありました。
その理由の1つ目は、杉本苑子さんの『檀林皇后私譜』を読んでいたからかもしれません。
ちょっとひねくれていて、なかなか本心を言えない、でもとても素敵なこの本の橘逸勢くんが好きでした。
主人公の橘嘉智子(たちばなのかちこ)は檀林皇后とも呼ばれ、絶世の美女であったと言われていますが、橘逸勢と彼女はいとこ同士で幼馴染という設定。
橘逸勢は嘉智子が好きだったのに、彼女は一族の栄達を賭けて皇太子の弟・神野王子の妻となり、藤原氏の北家(藤原氏は南家・北家・式家・京家の4つに分かれていました)とも姻戚関係を結びます。
幼馴染の2人の目指す道が、だんだん違ったものになっていくのがつらかったものでした。
そして2つ目は、三筆と言われる人物の中で、橘逸勢だけが不幸な死に方をするという点。
嵯峨天皇や空海には訪れなかった悲劇が、橘逸勢には待っていました。
三筆の他の2人は天皇だったり、スーパースターの超人だったりなのに、橘逸勢は従五位下(じゅごいのげ)、つまり下級貴族でした。
国政を担当することもできず、但馬権守(たじまのごんのかみ)=現在の兵庫県北部を治める地方長官という、いわば「普通の人」なのです。
唐では「橘秀才(きつしゅうさい)」と賞賛されたのに、スーパースターの天才・空海に比べたらどうしても見劣りし、藤原氏でもないから出世もできない。
そんな彼が、書の腕前だけで嵯峨天皇や空海と並び立つだけでもそもそも大変なのに、それに加えて不幸な死に方をするなんて悲しすぎる!
こうなったら、だれが何と言おうと、橘逸勢を応援しようと決めたのでした。
承和の変と橘逸勢
橘逸勢は三筆の一人として、そして842年の承和の変で失脚し、藤原北家との政争に敗れてしまった人物として、高校の日本史では紹介されています。
嵯峨上皇の息子である仁明(にんみょう)天皇の皇太子には、嵯峨天皇の弟である淳和(じゅんな)上皇の皇子・恒貞(つねさだ)親王が立てられていました。
恒貞親王の母は、嵯峨上皇の皇女である正子内親王(母は檀林皇后・橘嘉智子)でした。
一方、嵯峨天皇や檀林皇后の信頼を得た藤原北家の良房は、仁明天皇に妹を嫁がせ、生まれた道康(みちやす)親王の皇位継承を望んでいました。
この動きに危機感を持ったのが、皇太子である恒貞親王に仕える伴健岑(とものこわみね)とその盟友・橘逸勢でした。
彼らは皇太子の身に危険が迫っていると感じ、皇太子を東国に移そうとしますが、これを知った橘嘉智子が藤原良房に相談。
藤原良房により、この事件は陰謀事件とみなされて恒貞親王は皇太子を廃され、伴健岑は隠岐へ(その後出雲へ)、橘逸勢は由緒ある「橘」姓を「非人」姓にするという屈辱を受け、伊豆に流罪となりました。
じっとおとなしくしていたら、自動的に天皇に即位できる太子が皇謀反を起こすなんて、どう考えてもあり得ない!これこそ藤原氏北家の、他氏排斥の陰謀事件!と今なら大々的に訴えることができるのですが。
橘嘉智子にすれば、娘の正子が生んだ恒貞親王よりも、息子の仁明天皇の子・道康親王(母は勢力ある藤原北家出身)に皇位を渡したかったのでしょうか(2人とも自分の孫)。
杖で何度も打たれるという拷問を受けながら無罪を叫び続けた橘逸勢でしたが、伊豆へ向かう途中の駿河国板築で亡くなったとされます。
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