大河ドラマで学び直せる日本史 ペリー来航と開国(『西郷どん』第9話)

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西郷どんの江戸宿舎に、あの人の肖像画が!

『西郷どん』第9話では、西郷どんがやっと江戸に到着し、慣れない江戸で戸惑いながらも、憧れの薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)さまの「庭方役(にわかたやく)」として、斉彬さまから直接秘密の任務を承り、命がけで奉公できるという、子供のころからの夢(目標)が実現できた話が大きなテーマでした。

でも今回とても興味深かったのは、タイトルの「江戸のヒーさま(一橋慶喜)」とその父親・水戸(徳川)斉昭、彼らのライヴァルとなる井伊直弼というお歴々ではなく、西郷どんの江戸宿舎。

薩摩藩の江戸藩邸(芝高輪の下屋敷?)で、友人(厳密にいうと同じ郷中仲間ではないようです)有村俊斎と同じ部屋になりますが、その部屋の壁に貼ってあったのは、世界地図とペリーの肖像画。

もちろん教科書等で見るような写真ではなく、当時の瓦版で盛んに描かれた、鬼や天狗のような「ペルリ」の肖像画でした。

江戸時代はまだまだ続くけれど、ペリー来航の前と後とでは、歴史は大きく変わりました。

ペリー来航による「開国」が江戸幕府崩壊のきっかけとなり、江戸時代(近世)とは全く違う体制の明治時代(近代)が始まったのです。

ペリーが成功した理由とは

ペリー来航のはるか以前から、日本との通商を求めて、多くの外国船が日本に接近しています。ロシアのラクスマンやレザノフ、アメリカのモリソン号が有名でしょうか。

ロシアはシベリア開発のため日本から食料を補給したかったし、アメリカは中国貿易や捕鯨船の補給基地として、またアメリカ製品を輸出する海外市場として、日本の開国を望んでいました。

外国船に対して、幕府は丁寧に応対するものの通商は断ったり(ラクスマンやレザノフの場合)、また「異国船打払令」により打ち払ったり(モリソン号の場合)したりして、開国しようとはしませんでした。

ペリー来航の7年前の1846年、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが、浦賀に入港

ちなみに浦賀とは、今の神奈川県横須賀市東部、東京湾の湾口部に位置します。

ペリーもビッドルも「浦賀」という日本国防上の重要拠点に来航し、どちらも同じ「アメリカ東インド艦隊司令長官」という立場だったのに、なぜペリーだけが成功したのでしょうか。

勝因は、ペリーの「砲艦外交」。つまり強圧的かつ恫喝的な姿勢で、幕府に臨んだためでした。

先人の失敗から学んだペリー

ビッドルは穏健かつ冷静に幕府側と交渉したものの、結果的には通商を断られ、アメリカ海軍の威信を失墜したとして、帰国後アメリカ国民の非難を集めてしまいます。

アメリカ国民にすれば、自分たちの税金を使って派遣されたアメリカ東インド艦隊が役目を果たせなかったわけなので、「税金ドロボー!」と叫びたくなるわけでしょう。

ビッドルの失敗を見たペリーは、日本開国任務が与えられる1年以上前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出していたそうです。

  • 中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」
  • オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。
  • 任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること。
  • 日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。(以上ウィキペディアより)

ペリーはタカ派のフィルモア大統領から武力行使の許可を得ることに成功し、同じく日本開国のため派遣されたロシア海軍のプチャーチンよりも1ヶ月半早く(1853年6月3日)、浦賀に到着しました。

そしてペリーは今までの外国船と異なり、最新式の「蒸気船」しかも「大砲」を積んだ「艦隊」という立場を存分に利用して武力の使用をほのめかし、日本に脅しをかけたのです。

今まで見たこともない蒸気船に、江戸の町は大騒ぎ!たちまちこの大ニュースは瓦版となり、ペリーの顔も想像を交えて、天狗や鬼のように描かれました。

ペリーの艦隊は江戸湾の測量を行い、空砲発射(事前に通告)も行いました。

幕府はペリーの要求に屈し、フィルモア大統領の国書を受け取ったものの、12代将軍徳川家慶が病気だったことを理由に1年間の猶予を要求したため、ペリーは琉球を経由して香港へ。

香港で将軍徳川家慶の死を知ったペリーは、新将軍・徳川家定(病弱で判断能力がない?)が就任して間もない混乱の時期を狙い、1854年1月16日に再び浦賀に来航し、国書への返答を求めました。

しかもこの時は、9隻という(当時としては)大艦隊が江戸湾に現れたので、またまた江戸の町は大騒ぎ!

普通「1年後」って言ったら、1854年6月ごろに来るかなと思うのが普通(常識?)なのに、ペリーは敢えて無茶な要求をしたのです。

ロシアのプチャーチンに後れを取ってはならないという、彼の狙いもあったでしょう。

結局1ヶ月近い協議の結果、日米和親条約が締結され、下田と箱(函)館を補給基地として開港

日本は開国したのです。

ペリーにまんまとしてやられた日本ですが、ペリーの方も作戦を練り、情報を集めて分析し、しっかり準備をして臨んでいるわけですから、こういうペリーの姿勢は見習いたいものです。

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