楊貴妃の墓参り
映画『空海−KU-KAI− 美しき王妃の謎』にも登場する、中国を代表する絶世の美女・楊貴妃。
2009年3月の西安旅行の際、彼女のお墓参りもできました。
この旅行はちょうど、映画『空海−KU-KAI− 美しき王妃の謎』の原作『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』を読み終えたところだったので、彼女のお墓に行けるというのは感無量でした。
当時の宿場町・馬嵬(ばかい)駅は現在西安近郊の興平市となっていて、楊貴妃のお墓はそこにあります。
想像以上に立派なお墓でした。まず門を入ります。

お墓は半球状のレンガで覆われていました。

楊貴妃の墓で美人になろう!
楊貴妃のお墓はもともと土が盛られていたそうです。
不思議なことに、この墓の土は毎年春に白粉(おしろい)に変じ、かぐわしい香りを漂わせていました。
やがて「この白粉をつければ美人になる!」という噂が広まり、大勢の若い女性がこの墓に集まりました。
2、3年のうちに墓の盛り土はなくなってしまったのだとか。

そのため現在では、レンガで墓が覆われているというわけでした。
楊貴妃は日本へ! 今も日中両国に伝わる伝説
楊貴妃の墓は丘の中腹にあるのですが、さらに上っていくと楊貴妃の像(こちらは着衣の中国風)があり、お堂などいくつもの建物が建っていました。


建物の中の展示では、楊貴妃が阿倍仲麻呂とともに日本へ亡命したという伝説も紹介されていました。
山口県長門市の二尊院には、楊貴妃の墓と伝わる五輪塔があるそうです。

夢枕獏さんの『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』でも、この話は重要なモティーフとなっていました。
関西人なので、京都の泉涌寺(せんにゅうじ)にある楊貴妃観音のことが紹介されていたのも嬉しかったです。
泉涌寺の楊貴妃観音は、日本に亡命した楊貴妃をモデルにしたのではなく、南宋時代の中国から日本に伝来してきた観音像らしいのですが、日中両国での楊貴妃人気がよくわかりますね。
本場・楊貴妃の墓にあった観音殿。


丘の頂上からの見晴らしも素晴らしかったです。

楊貴妃を愛した玄宗皇帝はダメ男?
755年に起きた安史の乱の鎮定に失敗した玄宗皇帝は、長安の都を逃れて蜀(今の四川省)へ逃れようとしました。
苦しい逃避行の末、宿場町・馬嵬(ばかい)駅で近衛兵や司令官たちの反乱が起こります。
この反乱の原因である楊貴妃とその一族を殺せ!と迫る兵士たちをなだめるため、玄宗皇帝は最愛の楊貴妃を殺してしまいました。
仕方ない部分もあるけれど、自分の身を守るために最愛の女性を殺すなんて!
っていうか、大体玄宗皇帝が、息子の寿王の妃だった楊貴妃を奪ったことがそもそもの発端。
そして、楊貴妃におぼれて酒色にふけり、政務を見なくなったのがこの混乱の原因でした。

玄宗皇帝さえしっかりしていたら、反乱も起こらず、楊貴妃も死なずに済んだかも。
即位した最初のころは「開元の治」と称された唐の絶頂期なのですが、40年以上の独裁長期政権は、玄宗皇帝もその周辺も腐敗させてしまったようです。
日本の徳川綱吉も、治世の前半はとても良く頑張っていたのに、後半は生類憐みの令などで民心が離れていくのとよく似ていますね。
ちなみに下の写真は、玄宗皇帝が碁で負けそうになると、猫を使って邪魔をするお茶目な楊貴妃の図。
伊豆市の「象牙と石の彫刻美術館」に所蔵されているようです。
これを見ると、楊貴妃は猫を飼っていたのかも!と思われますね。
後日バスツアーで、この近くを通りました。団体旅行なので、立ち寄れなかったのが残念です。
今回の旅で気づいたこと
楊貴妃は「国を傾けた美女」とされますが、本人が美しすぎただけで、特に彼女が政治に介入したわけでもほかの妃たちを陥れたわけでもなく、ライチの取り寄せや華やかな宴など豪奢な生活は、当時の皇帝一家の暮らしからすれば許容範囲だったのかもしれません。
立派な墓を見ると、「楊貴妃は悪くなかったのに」という後世の人々の気持ちが伝わってくるようでした。
棺を蓋いて事定まる(かんをおおいてことさだまる)=人間の真価は、死んでから決まる ということでしょうか。
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